「あ」号作戦計画
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迷走する日本軍の作戦方針に対してアメリカ軍の侵攻は急であり、1944年2月にはかつて連合艦隊が決戦場と主張していたマーシャルに侵攻しこれを占領してしまった。また、1944年2月17日のトラック島空襲や、それに続くマリアナへの空襲もあり、いよいよ絶対国防圏が連合軍の脅威にさらされるなか、その中核であるはずのマリアナには陸軍部隊はおらず、この状況を憂慮した昭和天皇が「今後は遅れをとらぬよう後方要線を固めよ」と陸海軍両総長に異例の苦言を呈したため、ようやくマリアナの防備態勢強化が進められることとなった。大本営は第13師団に代わる部隊の選定をしていたが、関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)を派遣することを決定、さらに、戦局の緊迫化を理由に内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長の三職を兼ねていた東條英機の命で、1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成して、マリアナ諸島やパラオを含む西カロリンや小笠原諸島の防衛を担当させることにした。昭和天皇は小畑の出発にあたって「マリアナ諸島は日本の運命を決する最後の戦略線である。日本は全力をもってこれを確保する必要がある。軍司令官は全日本国民の期待に応えるため最後の御奉公をせよ」という言葉をかけている。 第29師団は満州から釜山に移動し、2月24日には3隻の輸送艦に分乗してまずはサイパンに向けて出発した。師団長の高品は大本営から「2個師団での防衛を前提とした師団配備」「配備の重点はグアムとせよ」という命令を受領しており、その命令に基づく戦力配置を検討していた。2月29日には大東島沖200㎞を輸送船団は航行中であったが、歩兵第18連隊と師団直轄部隊が乗船していたS型貨物船「崎戸丸」がアメリカ潜水艦「トラウト」の雷撃で沈没、「トラウト」も護衛の駆逐艦の爆雷攻撃で撃沈されたものの、乗船していた約4,000人のうち2,280人が戦死するとともに多くの装備が海没するなど大損害を被ってしまい、高品は当初の計画を変更して、テニアンに向かう予定であった歩兵第18連隊をサイパンで戦力回復させることとした。その後も第31軍の隷下部隊として、関東軍や日本本土から旅団、師団規模の部隊を松輸送でマリアナやパラオなど太平洋正面の島嶼に続々と送り込まれた。 海軍もマーシャルの失陥という事態を受け、トラックに司令部のある第4艦隊では中部太平洋全域の指揮をするのは困難と判断し、陸軍の第31軍編成と並行して、太平洋方面防衛を統括する中部太平洋方面艦隊を編成し、司令官には南雲忠一中将が親補され、司令部はサイパンに置かれた。指揮下には第4艦隊と第十四航空艦隊があったが、艦隊といっても軍艦は殆どなく、航空戦力についても、のちの「あ号作戦」にて、第一航空艦隊に編入されることとなり、実質的には陸上部隊であった。大本営は今までの痛い経験から、陸海軍の統一指揮体制の重要性を痛感しており、第31軍はマリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊の指揮を受ける形となった。陸軍の地上部隊が海軍の指揮下に入るのは、建軍以来初めてのことで日本陸軍としては大きな譲歩であり、東條も南雲を首相官邸に招くと「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と要請している。しかし、南雲の参謀副長には陸軍の田村義冨少将が就き、また地上戦の戦闘指揮は各師団長が行うという諒解もあっており、南雲の陸軍部隊への指揮権は形式的なものであった。実際に南雲が作戦について何らかの命令を出すことは殆どなく、酒宴などではいつも、植田国境子作詞作曲の大正時代の歌謡曲「白頭山節」の歌詞を「挙がる勝鬨、真珠湾」などと一部変えた替え歌を口ずさむなど、かつての真珠湾攻撃の栄光に浸っている様子であったという。 このほかにもサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれ、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵少将ら高級指揮官が集中しており、陸軍の高級将官も多数いる中で、のちの戦闘で指揮権の混乱が生じている。 2月29日、アメリカ軍とオーストラリア軍がアドミラルティに侵攻してきた。大本営は、アメリカ軍がアドミラルティに侵攻してきたことで、マリアナや西カロリンに侵攻してくる危険性は一旦は遠のいたが、マリアナに侵攻してくる場合には、中間地点を跳梁素通りしていきなり侵攻してくる可能性があると、今後のアメリカ軍の戦略を正確に予測した。そこで、西部ニューギニアに派遣予定であった第14師団を急遽マリアナに送って防備を固めることとし、3月20日に第31軍の戦闘序列に加えた。しかし、3月30日にアメリカ軍機動部隊によるパラオ大空襲があり、パラオが基地機能を失うような大打撃を被ると、大本営によるアメリカ軍の侵攻方向の判断がまた揺らぐこととなり、結局はマリアナより先にパラオや西ニューギニアに侵攻してくる可能性が高いという判断に至った。この判断によって、わずか10日前にマリアナ進出を命じた第14師団を急遽パラオに送ることとし、その代わりに後詰として4月7日になって第43師団(師団長:斎藤義次中将)を日本本土よりマリアナに送ることとした。しかし、この決定の時点では第43師団は未だ動員すらされておらず、準備や訓練で出発まで1ヶ月以上を要することとなり、この遅れがのちのサイパンの防衛準備に重大な影響をもたらすことになる。 パラオ大空襲に伴い海軍乙事件が発生し、古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職したが、古賀は新Z号作戦を策定しており、その計画によれば、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアを結ぶ三角地帯に邀撃帯を設けて、2方面軍で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうというものであった。古賀殉職後もこの作戦計画は進められ、アメリカ軍とオーストラリア軍がニューギニア北岸のホーランジアに侵攻してくると(ホーランジアの戦い)、大本営は三角地帯の防備を強化して、一大反撃を加える作戦構想を行うこととし、軍令部が中心となって5月3日には「連合艦隊ノ当面準拠スベキ作戦方針」によって決戦構想の「あ号作戦」が策定された。決戦地の選定にあたって、連合艦隊はアメリカ軍の侵攻がパラオとマリアナのどっちが先かはなかなか判断できなかったが、結局は大本営と同様にパラオが先という判断となった。これには、軍令部航空部員源田実大佐によれば「敵の来攻方向はフィリピンを目標とする西部ニューギニアと西カロリンであり、ダグラス・マッカーサーとチェスター・ニミッツの兵力が同時に別の方向に来攻するとは考えず、ニミッツの艦隊はマッカーサーの攻略部隊に応じるであろうと判断していた」という一方的な判断と、連合艦隊の泊地であったリンガ泊地や、「あ号作戦」の前進基地と想定していたタウィタウィから比較的近く、またパラオ大空襲で多数のタンカーを喪失していたことから、なるべく油田地帯に近いパラオを含む西カロリンが決戦地として都合がいいとする、日本軍の状況に基づく主観的な判断に基づくものであった。そのため、マリアナにアメリカ軍が侵攻してきた場合のことはあまり想定されておらず、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将によれば、「パラオとサイパンいずれに来ようとも万全の備えはとっていた」としているが、実際には基地航空部隊の対応方針は決めていたものの、艦隊の作戦方針については具体的には決められていないなど中途半端なものであった。 連合艦隊はあ号作戦のため、第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を新設すると共に基地航空隊の第一航空艦隊を中部太平洋に配置した。機動部隊の艦載機と航空基地からの陸上機によって、アメリカ軍の侵攻艦隊を挟撃して撃滅しようという作戦計画であり、マリアナ諸島には、第1航空艦隊第61航空戦隊の零式艦上戦闘機(サイパンに第261海軍航空隊と第265海軍航空隊、テニアンに第343海軍航空隊、グアムに第202海軍航空隊と第263海軍航空隊)、月光(テニアンに第321海軍航空隊)、彗星(テニアンに第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、天山(グアムに第551海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(テニアンに第761海軍航空隊、グアムに第755海軍航空隊)、銀河 (グアムに第521海軍航空隊)が分遣された。しかし、第1航空艦隊の基地航空隊は定数1,750機と表面上は大戦力であったが、実際に配備されたのはその半数の750機でうち可動機は500機程度にすぎず、うちアメリカ軍によるトラックやパラオやマリアナへの再三の空襲による損害も激しく、5月15日時点でのマリアナの航空戦力は275機にまで減っていた。基地航空隊の増強に備えるため、飛行場の造成も行われた。サイパン島には既にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)が完成していた他、オレアイ海岸沿いとカグマン半島に2か所の飛行場が造成中であったが、さらに3月1日にはサイパン北端のパナデルにも新たな飛行場の造成が命じられ、サイパンには4個の飛行場が造成されることとなった。連合艦隊は航空戦力に加えて、第六艦隊の潜水艦隊もマリアナに進出させて、作戦戦力に加えることとしている。 松輸送によって、太平洋方面の戦力増強は進んでおり、第43師団の第一陣や虎の子の戦車第9連隊の戦車73輌と戦車兵990人などがマリアナに到達した。アメリカ軍は多数の潜水艦を配置して、日本軍の輸送の妨害を図っていたが、輸送艦の損失は一部にとどまり日本軍の期待以上の成果を上げていた。しかし、輸送作戦後半の第3530船団は、第43師団の第二陣などを輸送していたが、アメリカ海軍潜水艦の執拗な攻撃によって船団6隻中5隻が沈没するなど大損害を受け、歩兵第118連隊は2,240人の将兵とほとんどの装備を失ない、他にも臼砲42門と戦車30輌などの重装備や、陣地構築用の建築資材の多くが海中に没した。 第31軍司令官小畑はサイパンに司令部を置き、隷下戦力の再編成と再配置を実施した。テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)を編成し、第43師団は北部マリアナ地区集団に組み込まれてサイパン守備を受け持ち、第29師団は南部マリアナ地区集団の主力としてグアムに配置された。
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