イル川渡河戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > イル川渡河戦の意味・解説 

イル川渡河戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/03 14:42 UTC 版)

イル川渡河戦(イルがわとかせん、英語: Battle of the Ilu River)は、第二次世界大戦中の1942年昭和17年)8月21日ガダルカナル島において日本軍アメリカ合衆国海兵隊を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘テナルの戦い英語: Battle of the Tenaru[3]アリゲーター・クリークの戦い英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。


  1. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 14–15, Jersey, Hell's Islands, p. 209. この戦闘には、海兵隊3大隊(各大隊約900名)の他、特殊兵器部隊、師団砲兵隊などが参加した。
  2. ^ 一木支隊先遣隊:支隊本部163名、大隊本部23名、第1~第4中隊(各105名)、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊150名、合計916名[1]
  3. ^ 917とも[2]
  4. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71. Smithによると、38名は戦闘中に死亡、3名はブラッシュ大尉率いる部隊の偵察任務中の戦死である。Frankによると、41名が戦闘中に死亡、偵察任務では3名死亡とされている。
  5. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。
  6. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。
  7. ^ 第二款 米軍の反攻と海軍部隊の状況 八月七日四時ソロモン群島のガダルカナル島及ツラギは突如空、海よりする猛烈なる爆撃及艦砲射撃を受け正午頃敵は空爆及艦砲射撃掩護の下にコリ岬附近に上陸を開始せり/當時ガダルカナル島にはルンガ附近に海軍守備隊約二五〇名の他海軍設營隊(工員約一六〇〇名を主體とす)あり別にツラギには守備隊約一中隊ガブツ島には約一小隊ありしか在ガダルカナル島海軍部隊は敵の上陸に伴ひルンガ南方山地に退避し十二日に至りマタニカウ河西方約三の海軍本部陣地に後退せり/當時第四艦隊と交代し南東太平洋方面に進出しありし第八艦隊司令長官及第十一航空艦隊司令長官は七日四時二十分ツラギより「敵猛爆中」の第一報を得次で『敵の多數船團は有力なる航空部隊及護衛艦艇協力の下にガダルカナル島及ツラギに奇襲上陸し現地警備隊及設營隊は苦戰中にして六時頃にはツラギ守備隊は最後の決意を爲せる』旨報告に接し直ちに航空部隊を以て攻撃すると共に旗艦以下使用し得る輕快艦艇の全力を以て基地航空部隊の攻撃に策應しガダルカナル島に進出して敵を撃滅する如く部署して七日十四時三十分ラバウルを出發し別に在ラバウル陸戰隊の約一中隊を以て増援部隊を編成しガダルカナル島に急派せしめ且第七潜水戰隊の潜水艦をしてガダルカナル島泊地に侵入し船團を襲撃せしめたり/第十一航空艦隊司令長官は八月八日テニヤンよりラバウルに進出せり第八艦隊及第十一航空艦隊は七日より九日に至る間ソロモン海域に於て米英聯合艦隊及輸送船団に猛撃を加へたり/本海戰をソロモン海戰(第一次)と稱呼す帝國海軍の公表に基く戰果左の如し 撃沈 米英甲巡九、乙巡四、驅逐艦九、潜水艦三、輸送船一〇/大破 甲巡一、驅逐艦三、輸送船一[7]
  8. ^ 横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の先発隊113名はラバウルから駆逐艦追風に乗艦し、8月16日深夜にガダルカナル島に上陸して17日の日中になりガ島残留部隊と合流した[13]。この横五特が、ガ島への最初の増援部隊である[14]
  9. ^ (四)一木、川口兩支隊のガ島揚陸掩護作戰及ラビ方面の作戰/先づ陸軍は速に出發し得る第十七軍の一部兵力をガ島に輸送しガ島の要地特に飛行場奪囘に決した 依て聯合艦隊は之が支援の爲内海西部に待機中の主力をガ島北方海域に集中を企圖し近藤中蒋指揮下の第二艦隊(前進部隊)は十一日 南雲中蒋指揮下の第三艦隊(機動部隊)は十六日、山本聯合艦隊司令長官旗艦大和は十七日夫々相次で内海西部を出撃南下すると共に印度洋方面に作戰中の第七戰隊及第三水雷戰隊に對し原隊に合同を命じた
    一方南東方面部隊は中央竝に聯合艦隊の作戰方針に基き第十七軍と協議の結果當時ガムに待機中の一木支隊(一木大佐の指揮する歩兵一個聯隊)及五特を速に推進するに決し先づガ島所在部隊と連絡を圖る爲一木支隊戰闘部隊の大部及横五特の大部を輸送船二隻に乗船全艦隊支援の下に二十位日ガ島に揚陸せしむることとした
    横五特の一部は十七日タサファロングに一木支隊先遣隊は十八日タイボ岬に何れも抵抗を受くることなく上陸に成攻し横五特の一部は所在海軍守備隊との連絡に成功した 一木支隊先遣隊は上陸後 機を失せず飛行場奪囘行動に移つた[15]
  10. ^ 第十七軍参謀松本中佐は十四日同島に派遣せられ右軍命令の要旨を支隊長に傳達すると共に支隊長と協議の上左の如く先遣隊(第一梯團)の兵力編組を決定せり/先遣隊(第一梯團)の兵力編組 支隊長 一木大佐/支隊本部(一六三名)/大隊本部(一二名)/第一乃至第四中隊(各中隊一〇五名)/機關銃中隊(MG八)( 一一〇名)/大隊砲小隊(BiA二)( 五〇名)/工兵中隊( 一五〇名)/計九一六名[16]
  11. ^ 先遣隊は十八日夜半タイボ岬附近に上陸し二十三時上陸點附近に集結を完了す[20]
  12. ^ 先遣隊は十六日五時驅逐艦六隻に依りトラツクを出航し南路ガダルカナル島に向ふ此の間諸情報を綜合するにガダルカナル島に上陸せる敵兵約二千にして其の戰意は旺盛ならさるものの如く一部はツラギ方面に退避しつつあるを知るの外蘇聯邦駐在武官報は米軍のガダルカナル島方面作戰の目的は日本軍の飛行基地破壊に在りて此の目的を達成せる米軍は目下日本海空軍の勢力下に在る同島よりの脱出に腐心しありと傅ふ[23]
  13. ^ 附圖第二 一木支隊第一梯團中川付近戰闘經過要圖/地形ノ概要 1.海岸ハ一面ノ椰子植林{距離間隔約五ニテ通視及射撃ヲ妨ケス/2.中川ノ河口ハ砂ノ爲閉鎖セラレアリ/3.中川左岸地区ハ右岸ニ比シ臺地状ヲ呈ス/4.海濱ハ通過極メテ容易ナリ/敵兵力 1.第一線兵力約三〇〇/2.迫撃砲三-四門/3.側防火器三(掩蓋ヲ有ス)/4.海上ヨリ砲四門/5.15H約四門[25]
  14. ^ 大本営陸軍部参謀辻政信中佐によれば、一木清直大佐は軍旗を焼いて切腹した[30]
  15. ^ 一方ガ島陸上に於ては一木支隊先遣隊がテナル河西方に於て敵有力部隊と遭遇苦戰中にして飛行場奪囘に見込立たざるに至つた[32]
  16. ^ ガ島派遣部隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三特別陸戦隊、第五特別陸戦隊から抽出され、第八十一警備隊所属の遠藤大尉の指揮を受けていた[59]
  17. ^ 第八艦隊は1942年7月14日に新編され[61][62]、兵力部署においては外南洋部隊であった[63]。第八艦隊旗艦「鳥海」は7月30日ラバウル到着[64]、陸上庁舎に艦隊司令部を置いた[65][66]。夕張と夕凪は第四艦隊隷下の第二海上護衛隊所属。
  18. ^ 沈没艦は豪巡洋艦キャンベラ、米巡洋艦クインシーヴィンセンスアストリア、駆逐艦ジャーヴィス (DD-393)[69]。損傷艦は米巡洋艦シカゴ、駆逐艦ラルフ・タルボット英語版
  19. ^ 又三川中蒋は敵の奇襲上陸に會し取遭へず陸戰隊を急據ガ島に増援するに決し敵の上陸直後より準備を進め轉用可能の海軍陸戰兵力を各部より抽出し明陽丸、宗谷、津輕外三隻を以て之が輸送中の處八日セントジョージ岬の南方にて明陽丸敵潜の雷撃を受け沈没するに至り遂に本輸送を断念したのである[73]
  20. ^ 8月7日1030大本営陸軍部宛ての第17軍報告〔一 海軍ノ通報ニ依レハ七日〇六〇〇空母一、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦一五ニ護衛サレタル輸送船約二〇「ツラギ」ニ上陸セリ、又「サマライ」及「ラビ」ハ八月初敵ガ之ヲ占領セリ/二 軍ハ「ツラギ」増援ノ海軍ノ希望ニ依リ、即時歩兵第三十五旅団ノ一部ヲ使用スルコトアリ、諒承アリ度/三 「ポートモレスビー」作戦ハ目下ノ処変更ナシ[92]
  21. ^ (8月9日午後1時20分の第十七軍電報)[97]敵ノ占拠セル「モレスビー」、「ラビ」、「ツラギ」ノ三拠点中「モレスビー」ハ戦略上最モ重要ナル地位ヲ占ムルノミナラス 軍ハ既ニ之カ攻略ノ途中ニアリ 横山先遣隊ハ「スタンレー」山系ニ進出シツツアルヲ以テ速ニ南海支隊主力ヲ之ニ投入シテ其ノ死命ヲ制スルヲ目下最善ノ方策ト信ス 日ヲ空ウスレハ同方面ニ対スル増強ヲモ顧慮セサルヘカラサル現況ニ於テ殊ニ然リトス 故ニ十六日ハ多少ノ船舶ノ損害ヲ顧ミス敢行ノ決意ヲ有ス/「ツラギ」方面ニ於ケル海軍支援ノ為ニハ 成ルヘク速ニ歩兵第三十五旅団ノ所要兵力ヲ以テ 同方面ノ要地ヲ奪還スルヲ可トスル意見ナリ/軍ハ右要領ニ基キ作戦ヲ指導スヘキニ付御含ミアリ度
  22. ^ 一木支隊は5月5日の大陸命第625号により戦闘序列下令[103]。ミッドウェー作戦時兵力は、支隊長一木大佐、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第1中隊、独立速射砲第8中隊。総兵力約2000名、折畳舟約30、対戦車砲8門、その他装備[103]。内地帰投後はアリューシャン列島アッツ島に配備予定であったという[104]
  23. ^ 一木支隊は北海道第7師団を基幹として編制された。第2師団を基幹とする青葉支隊は仙台青葉城からその名をとった。一木支隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将の指揮下に入り輸送船に乗船、田中頼三第二水雷戦隊司令官指揮下の水雷戦隊に護衛されてミッドウェー島へ進出、海軍陸戦隊と共に同島を攻略する予定であった[108]ミッドウェー海戦の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、6月13日にグァム島へ帰投していた[109]。本土へ帰還するため輸送船2隻に分乗し8月7日グァム島を出発したところ、ガダルカナル戦の生起にともない同方面に投入された[110]。一木支隊はグアムからトラック島を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。
  24. ^ 8月10日夜の第二十五航空戦隊司令官報告〔陸攻二一機、零戦一五機「ガダルカナル」泊地敵攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ 「ツラギ」南東一〇浬、沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及「ツラギ」「ガダルカナル」各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ「ツラギ」ヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク 当時高度七,〇〇〇 陸攻一機被弾 零戦三機ハ「ガダルカナル」低空(一,〇〇〇米)ニテ偵察 敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ飛行場内ニ認ム 密林中ヨリ七.七粍機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾[115]
  25. ^ (8月11日午後6時、第十一航空艦隊報告)[116]一 本十一日戦闘機ニ依ル「ガ」島方面偵察ノ状況左ノ通リ 1「ガ」島方面(偵察高度二〇〇米)/(イ)海岸ニ小舟艇約五〇隻内四隻航行中敵性ト認メラル/(ロ)「ルンガ」河口岸東方ニテ設置シアリタル模擬飛行場附近ニ於テ猛烈ナル機銃射撃ヲ受ク/(ハ)「ルンガ」河口附近ニ梱包集積シアリ/2「ツラギ」方面(偵察高度約七,〇〇〇米)小舟艇約八隻航行中/二 昨日及本日ノ飛行偵察ニ依リ「ガダルカナル」飛行場附近及「ツラギ」方面ニ敵ノ占拠セルコト確実ナルモ 其ノ兵力及企図不明ナルヲ以テ 明日以後駆逐艦及潜水艦ヲ以テ強行偵察ヲ実施スルト共ニ 極力友軍ノ状況ヲ偵察之ガ救援ニ努メントス 
  26. ^ 8月12日、第八根拠地隊首席参謀松永敬介中佐(兵50期)による報告[117]。「ガダルカナル」島飛行場附近ニ若干ノ敵アルモ、ソノ動作ハ萎縮シテ元気ナク、又海岸附近ノ舟艇ハ頻繁ニ航行シツツアルモ、敵主力ハ既ニ撤退セルカ、撤退セントシツツアル感ジナリ。残存敵兵及舟艇ハ取残サレタルモノト認メラル。
  27. ^ 駆逐艦追風夕月。『戦史叢書49巻』を含め多くの二次資料は「夕月」と記述する[118]。追風主計科の岡村は、同行艦を夕凪[130]と回想している。
  28. ^ (第十七軍より大本営への報告)一 参電九七三号受領ス/二 「ソロモン」群島方面ニ上陸セル敵ハ五-六,〇〇〇内外ト推定セラルルモ確実ナル情報尚不明ニシテ未タ飛行場ヲ利シアラサルコト確実ナリ/三 軍ハ海軍ト協同シテ速カニ同方面ノ敵ヲ撃滅セントス 之カ為ニハ敵ノ占拠未完ノ機ニ於テ之ニ一撃ヲ加ヘ飛行場ノ利用ヲ封殺又ハ制限ノ要アルモノト認ム 先ヅ一木支隊ノ突入ニ関シ本十三日中ニ陸海協定ヲ完了ノ予定ナリ 同支隊ハ十六日「トラック」島発駆逐艦五隻及現ニ乗船中ノ輸送船ニ依リ直路「ガダルカナル」ニ向ハシムル予定ナリ 細部ハ後報ス/四 独立第三十五旅団主力ハ目下ノ所「ソロモン」群島方面ノ使用ヲ予定シ先ツ「トラック」島ニ前進セシムル筈ナリ/五 軍ハ「ソロモン」群島方面ノ状況ニ拘ラス「レ」号作戦遂行ノ為ニハ既定計画ノ変更ヲ避ケ迅速ヲ期シツツアリ/六 歩兵第四十一聯隊ハ南海支隊ノ戦力増強及補給実施ノ為同支隊ニ配属セリ/七 青葉支隊及其ノ他「ダバオ」残留部隊ハ状況ノ推移ニ応シ随時「ソロモン」群島方面「サラマイ」方面又ハ「MO」方面ニ使用シ得ンカ為「ラバウル」ニ前進ヲ命シアリ之カ為成ルヘク速ニ輸送船ノ配当アリ度 [135]
  29. ^ (8月13日、第十一航空艦隊)[138] 八月十三日一二〇〇迄ニ得タル「ガダルカナル」島、「ツラギ」方面情況ハ十一航艦機密第一三番電及(中略)ノ通ニシテ、敵兵力ノ概数、「ガダルカナル」島友軍警備隊及設営隊ノ情況等尚不明ナルモ、所在敵兵力ハ有力部隊ニ非ラザル算尠カラザルノミナラズ、此際「ガダルカナル」攻撃ヲ遷延スルハ凡ユル方面ヨリ見テ我方ノ不利ヲ増大スベキヲ以テ、第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間協議ノ結果速ニ之ヲ奪回スルニ決セリ 協定要旨左ノ通/一 作戦方針 速ニ「ガダルカナル」島所在敵兵力ヲ撃滅シ之ヲ確保セントス/二 上陸作戦兵力、一木支隊及横五特/三 上陸日時(「ガダルカナル」島)八月十八日(W日)一木支隊ノ一部(駆逐艦六隻ニ分乗)、W+3日爾余ノ兵力(輸送船二隻)/四 護衛隊 直接護衛兵力 神通及駆逐艦六隻 指揮官第二水雷戦隊司令官 間接護衛兵力 第六戦隊 指揮官第六戦隊司令官/五 陸戦隊ハ「ガダルカナル」島上陸後飛行場及附近確保迄一木支隊長ノ指揮ヲ承ク/六 敵空母出現等ノ場合ハ本作戦ヲ延期又ハ取止ムルコトアリ 此ノ場合第十七軍司令官及第十一航空艦隊司令長官協議決定ス/七 本作戦ヲ「キ」号作戦ト呼称ス 
  30. ^ (8月13日朝、第十一航空艦隊意見)[146]一 海軍監視哨皆現存ス 敵飛行場ヲ整備セス五百米ニ降下セルモ「ガ」島平静ナリ/一 巡洋艦大部壊滅 爾後ノ増援補給困難 敵戦闘機ハ陸上ヨリ飛来出来ス空母ニ依ル 是ハ危険ナル仕事ナリ/一 敵ハ毎日朝偵察シアルハ不思議ナリ 占拠シアレハ無線報告アルヘシ 余リ大ナルモノ無ク或ハ土人ヲ残シ白人大部引揚ケタルモノナラン/一 敵ハ我飛行場完成近キヲ狙ヒ好機ニ来レルモ八百ニシテ猶四百米未完 大型機ハ困難ナリ/一 敵戦闘機ハ陸上機トアリシ故島ヲ見サレハ飛ヘス 故ニ空母十六節ニテモ全ク一日我哨戒圏ニアリ 之ヲ捕捉撃滅シ得大型機ハ戦闘機「ツラギ」ニ着カサレハ空輸サセルヘシ 然カモ「ガ」飛行場ヲ整備シアラス 敵空母ヨリ出テ飛ヒ得ル距離ハ二〇~一五〇浬ナリ 
  31. ^ 第四款 一木支隊のガダルカナル島上陸及爾後の戰闘(附圖第二参照)第十七軍司令官は大本營の命令竝に指示に基き現地海軍と協定し一木支隊は敵機の哨戒圏を成るへく避くる爲トラツク島より直行し且其の第一梯團は戰機に投ずる爲驅逐艦輸送に依り十八日夜 第二梯團は輸送船に依り二十四日夫々ガダルカナル島タイボ岬に上陸せしむるに決し十三日同支隊に對し左記要旨の命令を下達せり/第十七軍命令要旨 八月十三日十五時ラバウル(中略)[16]
  32. ^ (第十七軍司令官の13日午後3時命令)[149]一 「ソロモン」方面ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力尚不明ナルモ 上陸後ノ活動ハ必スシモ活發ナラス 本十三日ニ至ルモ「ガダルカナル」飛行場ヲ利用シアラサルコト確実ナリ/二 軍ハ敵ノ占領未完ニ乗シ 海軍ト協同シテ速ニ「ソロモン」方面ノ敵ヲ撃滅シ其要地ヲ奪回確保セントス/三 一木支隊ハ海軍ト協同シ先ツ「ガダルカナル」飛行場ヲ奪回確保スヘシ 止ムヲ得サレハ「ガダルカナル」島ノ一角ヲ占領シテ後続部隊ノ来着ヲ待ツヘシ 之ガ為先遣隊(約九〇〇名)ヲ編成シ不取駆逐艦六隻ニ分乗シテ直路「ガダルカナル」島ニ向ヒ前進スヘシ/四 本作戦ノ為陸海軍協定覚書左ノ如シ(以下記録欠如)
  33. ^ 「以上ヲ総合スルニ「ガ」島ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力未詳ナルモ行動ハ活発ナラズ 七日八日我方ノ攻撃ニ依リ受ケタル甚大ナル損害ト 十日ニハ既ニ全艦艇船舶ガ引揚ゲタル状況トニ鑑ミ陸上残留兵力ノ戦力ハ大ナラザルモノト判断シアリ」[119]
  34. ^ 外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官。
  35. ^ 第六戦隊司令官五藤存知少将。
  36. ^ 第六戦隊の重巡洋艦青葉古鷹衣笠。既述のとおり、重巡加古は沈没していた。
  37. ^ 第二水雷戦隊司令官田中頼三少将、兵41期。
  38. ^ 『戦史叢書第77巻』156頁では「挺進隊」と記述する。
  39. ^ 第4駆逐隊司令有賀幸作大佐。
  40. ^ 第4駆逐隊は第1小隊(萩風)と第2小隊(野分舞風)に区分されていた[157]
  41. ^ 第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦谷風浦風浜風。17駆所属の磯風は鳥海の護衛。
  42. ^ 陽炎は第二水雷戦隊・第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、陽炎)に所属するが、僚艦3隻はB作戦のため別働中だった。
  43. ^ 第七潜水戦隊司令官吉富説三少将。
  44. ^ 第八根拠地隊司令官金沢正夫中将。
  45. ^ 二九ママ日一六〇〇「ラバール」剛〈第八方面軍〉発、「ガ」次長宛(中略)七、敵側ニ関スル情報並ニ之ニ対スル注意(中略)○一木支隊ノ「ガ」島ニ向フ途中八月一七日一〇三〇赤道通過左記情報ニ接ス 「ソ」聯駐在武官発、米軍ノ「ガダルカナル」島方面作戦ノ目的ハ日本軍ノ飛行基地破壊ニアリテ、此目的ヲ達成セル米軍ハ目下日本軍海空軍ノ勢力下ニ在ル同島シアリ/以上ノ情報ニ接シ将兵一同聊カ手応ナサニ落胆ノ感ヲ抱ク(以上一木支隊戦斗詳細)
    [(欄外)黒溝台会戦前ノDカ得タル情報ト将兵ノ意気=勇躍遠征ノ途ニツイタ一木ノ心理](註 黒溝台会戦初動ノ「早ク行カヌト敵ハ逃ケル、敵ハ一旅団ナラン」トノ感想、想起)](以下略)[160]
  46. ^ 『戦史叢書14巻』298頁や『戦史叢書第49巻』519頁では「第4駆逐隊司令佐藤康夫大佐」と記述しているが、佐藤大佐は第9駆逐隊司令。第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐。
  47. ^ 一木支隊916名の内訳は、支隊本部163名、大隊本部23名、第一~第四中隊各105名、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊(150名)[142]。駆逐艦および内火艇の搭載能力から、水陸両用戦車の存在は明らかであったが、速射砲中隊は先遣隊に含まれず[164]
  48. ^ 輸送船「金龍丸」と哨戒艇2隻は8月13日にグァム島を出発した[168]
  49. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Frank, Guadalcanal, p. 145, Jersey, Hell's Islands, p. 204, 212, Morison, Struggle for Guadalcanal, p. 70, and Smith, Bloody Ridge, p. 43. 第1梯団は北海道旭川の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長蔵本信夫少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり[183]、一木支隊の上陸を支援した。
  50. ^ 奥宮正武は『ラバウル航空隊』で「萩風がB-17の爆撃で損傷し、僚艦山風に援けられて撤退した」…と記述するが[194]、山風と嵐の誤認。山風は既に沈没していた。
  51. ^ 駆逐艦「陽炎」は8月20日に空襲を受けて避退、21日にショートランド泊地で水上機母艦秋津洲より燃料補給を命じられた[195]
  52. ^ 外南洋部隊支援隊指揮官は五藤存知第六戦隊司令官。翌20日1202、第六戦隊は夕凪を残してレカタを出発した[196]
  53. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 100, Jersey, Hell's Islands, p. 205, and Smith, Bloody Ridge, p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。
  54. ^ アリゲーター科のワニが生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。
  55. ^ 敵は依然ガ島方面に主導し兵力を増強すると共に十七日には潜水艦二隻を以てマキン島に奇襲上陸を行ひ我海上兵力のガ島方面集中を牽制して來た/聯合艦隊司令長官は右の情況に鑑み内南洋部隊指揮官井上中蒋に對しマキン島の奪囘竝にナウル、オーシャン島の破壊占領を下令した/二十日ツラギの南東方に敵空母部隊策動中なるを發見し南東方面部隊指揮官塚原中蒋は一木支隊主力の揚陸を一時延期し聯合艦隊海上兵力の支援配備完了する二十四日を以て上陸決行のこととし此の間輕快部隊を以て二十一日夜ルンガロードに入泊中の敵部隊を攻撃すると共に二十二日有力なる基地航空部隊を以て敵増援部隊竝に軍事施設撃破を下令した 二十一日近藤、南雲、兩艦隊はトラツクの南東方を南下中であり、山本大蒋はトラツク西方を南下中である[32]
  56. ^ 夕凪は天候不良のため泊地に突入できず[226]、陽炎は燃料補給のために後退[184]、江風は8月22日単艦で突入し米軍駆逐艦3隻(ブルーヘルムヘンリー)と交戦してブルーを撃沈した[227]
  57. ^ Gilbert, Marine Tank Battles, p. 42–43, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 106, Jersey, Hell's Islands, p. 212, and Smith, Bloody Ridge, p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。
  58. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71–72. Smithによると、戦闘を生き延びた日本兵のほとんどは、一木大佐は自決ではなく戦死したと主張している。戦闘の後、負傷した日本軍士官は、死んだふりをして近づいた米兵を射撃し重傷を負わせ別の米兵アンディ・ポリニー(Andy Poliny)に殺された。ポリニーはこの人物が一木大佐であったと信じている。
  59. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156. Frankは、「戦史叢書によると一木は切腹して自決したとある」としている。しかし日本軍生存兵には、一木大佐が米軍陣地に突撃したのを最後に目撃したと証言するものもいる[243]。一木大佐戦死後、旗手の将校や下士官兵により軍旗は奉焼されたという[243]
  60. ^ 川口 (1960),p.197。川口支隊を率いた川口清健の手記では「一木大佐は軍旗を処分した後立派に自決した」とある。
  61. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 291 and Smith, Bloody Ridge, p. 43 and 73. 戦闘前100名程が後方の守備に置かれたことと、戦闘を生き延びた兵は128名であるとの記録があるので、30名程が戦闘を生き延びて後方に逃れたものと推測できる。
  62. ^ 8月25日の空襲で輸送船金龍丸と駆逐艦睦月沈没、軽巡神通中破。[257]
  63. ^ 聯合艦隊電令作第198号(8月8日0200発令)[112]一 七日敵攻略部隊ハ機動部隊支援ノ下ニ「ツラギ」「ガダルカナル」方面ニ来襲、基地航空部隊、先遣部隊、外南洋部隊ハ之ヲ攻撃中ナリ/二 聯合艦隊ハ速ニ此ノ敵ヲ撃滅スルト共ニ、同方面ヲ確保セントス/三 各部隊ハ左ニ依リ作戦スベシ (イ)外南洋部隊、内南洋部隊、基地航空部隊(南東方面部隊ト呼称)ハ、基地航空部隊指揮官之ヲ指揮、反覆敵ヲ攻撃、且「ボーゲンビル」方面航空基地ヲ整備確保、二十六航戦ハ速ニ「ラバウル」方面ニ進出/(ロ)前進部隊、機動部隊(修理等ニ依リ急速作戦困難ナルモノハ之ヲ除ク)ハ、準備完成次第南洋方面ニ進出支援(以下略)
  64. ^ 第十一航空艦隊司令長官塚原中蒋は麾下基地航空部隊の精鋭を率ひ七日サイパンよりラバウルに進出し聯合艦隊命令によつて南東方面に於ける海軍部隊の最高指揮官となつた[73]
  65. ^ 第六航空隊はミッドウェー島に進出予定だったが、同隊の零戦はミッドウェー海戦で空母4隻と共に沈んでしまった[290]
  66. ^ 一「ト」号作戦(註、東部ニューギニア作戦)ニ関スル陸海軍中央協定ニ基キ「ソロモン」群島方面ノ情勢ニ応スル所要ノ援助ヲ実施セラレ度 但シ「レ」号作戦(註、モレスビー攻略作戦)ハ予定ノ如ク敢行スルヲ要スト考ヘアリ。/二 右情況ニ鑑ミ貴軍全力ノ「ラバウル」集結ヲ成ルヘク速カナラシムルノ要アルニ付至急準備セラレタシ 之ガ為ノ艦船ニ関シ至急研究ノ上通報ス 右 依命[296]
  67. ^ 一 新ナル状況ニ基ク当面ノ作戦指導ニ関シテハ中央ニ於テモ陸海協同研究中ニシテ逐次所要ノ命令指示ヲ発令セラル予定/二 速ニ「レ」号作戦(「サマライ」附近ノ攻略ヲ含ム)ヲ完遂スルコトハ今後ノ貴軍作戦(「ソロモン」方面ノ奪回ヲモ担任セシメラルルコトトナルヘシ)指導上極メテ重要ナリト考ヘラルヲ以テ現地海軍ノ事情ノ許ス限リ万難ヲハイシテ速ニ既定計画ヲ遂行セラレ度 此ノ趣旨中央海軍側モ同意見ナリ 右 依命[295]
  68. ^ (第十一航空艦隊の報告通報より)二 当方面今後ノ作戦実施ニ関シ第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間ニ左ノ通協議セリ (イ)「レ」号作戦ハ二日繰下グル外 原計画之ヲ実施ス/(ロ)「ガダルカナル」島奪回作戦ハ陸軍川口部隊ノ主力 一木支隊及横五特ヲ以テ実施、作戦可能時期八月二十五日頃ノ見込ナルモ更ニ之ガ促進に努ム/三 前項両作戦共ニ時日ノ遷延ハ甚大ナル不利ヲ招来スルノミナラズ敵ハ海上兵力ヲ建直シテ、再度「ガダルカナル」島ニ増援補給スル公算大ナルヲ以テ第二艦隊及第三艦隊ハ一日モ速ニ遅クモ八月二十二日迄ニ「トラック」方面ニ進出スル如ク準備促進方取計ヲ得度。[120]
  69. ^ 然るにガダルカナル島増援は極めて急を要し且第十七軍司令官のソロモン方面に使用を豫定しある歩兵第三十五旅團のパラオ出港は船舶の關係上遅延を免れさる状況なりしを以て大本營は當時グアム島に在りてソロモン方面に對する出發最も迅速なる一木支隊を同方面に使用するを適當と認め八月十日該支隊に對しトラックに至り第十七軍司令官の隷下に入るへきを命せり/是に於て軍司令官は直ちに一木支隊をガダルカナル島に派遣するに決し十一日同支隊に對し『トラツク到着後成るへく速かにラバウルに前進すへく』命すると共に十三日歩兵第三十五旅團に對し『先づ速かにトラツクに前進し(海軍側の意見に依りトラツクより直行せしむる爲ラバウル招致を取止めたり)随時主力を以てソロモン方面に作戰するの準備に在るへき』を命せり[300]
  70. ^ 敵上陸の初期に於ける陸上の状況は全く不明であつたが十二日に至り漸くガ島見張との連絡に成功し各見張所の健在なることを確認した/但し依然として陸上の戰況は不明であつた[15]
  71. ^ 十三日大本營は大海指第一二〇號を以て情勢に應する東部ニューギニヤ、ソロモン群島作戰に關する作戰指導方針を指令したが其の骨子は聯合艦隊の大部を以て第十七軍(歩兵約十三ヶ大隊)と協同 先づガ島及ツラギ方面の敵を撃滅して同地の要地特に飛行場を奪囘すると共に既定計畫に基きポートモレスビーを攻略せんとするものである[15]
  72. ^ 1942年7月14日に新編された第三艦隊は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍驤)、訓練部隊の空母鳳翔を擁していた[309]。だが訓練未了や艦整備のため空母3隻(隼鷹、飛鷹、瑞鳳)は出撃できず、二航戦司令官角田覚治少将の指揮下で引き続き内地で訓練を続けた[310]
  73. ^ 第三艦隊所属の第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(軽巡長良、第4駆逐隊第2小隊[157]、第10駆逐隊、第16駆逐隊)。
  74. ^ 支隊長は第二梯團(輸送船に依り二十四日上陸豫定)を待つ事なく十八日二十四時より海岸道に沿ひ西進し十九日二時胸を没するベランデ川を渡河しつつ二十日未明レンゴに到着しルンガ岬方面の敵行動活發なるを目視し同日夜暗を利用し戰闘を豫期して前進し先づ第十一設營隊跡附近を奪取し爾後飛行場方面に對する攻撃を準備すべく企圖せり[20]
  75. ^ 支隊は二十日夜半其の先頭を以て中川右岸地區に進出し同河左岸區に在る敵と戰闘を交へ支隊長は逐次兵力を註入し力攻せるも戰況進展せず二十一日午後に至るや支隊の左翼方面より戰車六輌を伴ふ的の反撃に會し戰況利あらす支隊長以下第一梯團の大部は是に壮烈なる戰死を遂げ支隊の生存者百數十名は二十二日より二十九日に至りタイボ岬附近を確保し後続部隊の來着を待ちたり[20]
  76. ^ 軍司令官は「一木支隊が十八日夜の上陸に成功し爾後飛行場に向かひ前進せる」を承知し十九日歩兵第三十五旅團に對し自今川口支隊となり速かにガダルカナル島に上陸しガダルカナル島ツラギ等を奪囘すべく命令せり然るに二十日十五時二十分頃『ガダルカナル島飛行場(二十日以來敵側利用中にして當時四乃至六機にて局地上空哨戒中)の敵戰闘機空中退避(註、退避の字句は電文不明に付起草者の判断なり)せる』を知り次で二十一日ガダルカナル島海軍警備隊より「二十一日朝來同島に著しき銃声を聞く」との報告を受領し一木支隊は既に同地附近に進出し戰闘中なるものと判断しありしが二十三日に至り同支隊との連絡杜絶し且二十一日十七時四十五分發ガダルカナル島海軍戰備隊より『一木支隊は全滅に瀕しありとタイボ岬見張所より通知ありたり』との報告を受領せり軍は本情報か発信者不明にして眞爲保し難きも(一木支隊通信掛将校の委託せるものなる事後刻判明)一木支隊が苦戰中なるべきを察しガダルカナル島の情況偵察を兼ね彈藥、糧秣の空中補給の處置を講せんとせしも天候不良の爲實現し得す[20]
  77. ^ 第30駆逐隊司令安武史郎大佐指揮下の駆逐艦(睦月、弥生、磯風、江風、陽炎)[321]
  78. ^ 一木支隊第二梯團(輸送船二隻に搭乗)は二十二日夜ガダルカナル島に上陸の豫定なりしが二十日サンクリストバル島(ガダルカナル島東南五十哩)東南八十哩附近に空母一乃至二を有する敵艦隊現出し第八艦隊は之が撃滅の爲出撃せるを以てガダルカナル島上陸を二十四日夜に變更せり然るに同梯団は爾後ガダルカナル島に向ふ航行途中二十五日朝敵艦載戰闘機四の攻撃を受け護衛旗艦神通は損傷を受け海軍陸戰隊搭乗の金龍丸は火災を生じたる爲ショートランドに反轉せり/二十五日海軍部隊は敵空母撃滅の爲出撃し第二梯團の掩護不可能に付止むを得す再び上陸を二十八日に延期せり/第十七軍司令官は一木支隊第一梯團上陸後既に一週間を經過せるも尚増援及補給を行ひ得さるを憂慮し海軍側に對し其の速かなる實行を嚴に要求するところあり/同梯団は爾後再度ガダルカナル島に向かひたるも二十八日十五時五十分頃イサベル島南方に於て敵機の攻撃を受け又もショートランドに反轉するの止むなきに至り爾後川口支隊と共に上陸する事となり二十九日夜より九月二日に亘る間に於て敵の抵抗を受くることなく上陸を完了し得たり[326]
  1. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 72.
  2. ^ Frank, Guadalcanal, p. 147 & 681.
  3. ^ a b ニミッツ 1962, p. 120.
  4. ^ a b ニミッツ 1962, p. 111.
  5. ^ 戦史叢書14 1968, p. 300.
  6. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 160a-161ガ島所在部隊の状況
  7. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 30.
  8. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 153.
  9. ^ a b c 戦史叢書14 1968, pp. 287–289.
  10. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 118–119局地戦とみなした陸軍
  11. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 70–73一木支隊悲劇のUターン
  12. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 100–101誰知らぬ南の島
  13. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 104a横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗
  14. ^ a b c d e f g h 戦史叢書49 1971, p. 533.
  15. ^ a b c 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 10.
  16. ^ a b c d 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 34–35.
  17. ^ a b c 戦史叢書77 1974, pp. 157b-158一木先遣隊の輸送
  18. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 101a即時、ガ島を奪回せよ
  19. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 101–110混乱した海軍部隊の指揮・陸軍部隊との連携
  20. ^ a b c d 第十七軍作戦(1) 1946, p. 36.
  21. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 101.
  22. ^ a b 城英一郎日記 1982, p. 179(昭和17年8月24日記事)(中略)「ガダルカナル」の敵兵約二〇〇〇、一木先遣隊、(飛行機)場攻撃中なるが如し、相当被害を受く。(以下略)
  23. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 35–36.
  24. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 119.
  25. ^ a b c d e f g h 第十七軍作戦.附図 1946, p. 9.
  26. ^ a b 戦史叢書14 1968, pp. 306a-310一木支隊の攻撃失敗
  27. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 166a-167一木支隊の戦闘
  28. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 536.
  29. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 101b-102一木先遣隊の壊滅
  30. ^ a b 高松宮と海軍 1999, pp. 130–131.
  31. ^ a b c d ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 16–17昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出
  32. ^ a b 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 11.
  33. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 330–331二十五日―船団空襲を受ける
  34. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 84–88第二次ソロモン海戦/一木師団第二梯団の上陸中止
  35. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 102a「ネズミ輸送」でガ島へ
  36. ^ ニミッツ 1962, p. 123.
  37. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 74–75ウォッチタワー作戦
  38. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 438–439ガダルカナル島及びツラギ上陸
  39. ^ ニミッツ 1962, pp. 102–106ガダルカナル
  40. ^ Hogue, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 235–236.
  41. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 28–35日本軍守備隊はなぜ沈黙しているのか
  42. ^ Morison, Struggle for Guadalcanal, pp. 14–15.
  43. ^ 土井 2009, p. 40第十一設営隊の人数は資料により差異あり。作業員1350名、将兵230名とも。
  44. ^ 戦史叢書77 1974, p. 133.
  45. ^ 戦史叢書49 1971, p. 498ガダルカナル島及びツラギ所在部隊の戦闘
  46. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 260–263ツラギ所在部隊の戦闘
  47. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 500–503ツラギ方面の戦闘
  48. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 35–41設営隊員の証言
  49. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 264–266ガダルカナル島所在部隊の戦闘
  50. ^ 戦史叢書49 1971, p. 499挿図第36、ガダルカナル島所在部隊行動概要図
  51. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 157a挿図第六 ガダルカナル島所在部隊行動概要図
  52. ^ 土井 2009, pp. 46–48.
  53. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 241–243第十一航空艦隊の作戦指導
  54. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 138.
  55. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 237–241基地航空部隊の反撃
  56. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 95–97.
  57. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 243–245八日の戦闘
  58. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 139–140第五空襲部隊
  59. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 249.
  60. ^ 戦史叢書49 1971, p. 442.
  61. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 372–374第八艦隊の新編
  62. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 67–68第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担
  63. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 68–70聯合艦隊第二段作戦第二期(後期)兵力部署
  64. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 201(昭和17年7月30日記事)
  65. ^ 戦史叢書49 1971, p. 403.
  66. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 70–71内南洋部隊の兵力部署及び第八艦隊司令部の進出
  67. ^ a b サボ島沖海戦 1998, p. 251.
  68. ^ ニミッツ 1962, p. 117第15図 サヴォ島海戦(1942年8月9日)
  69. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 250.
  70. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 50.
  71. ^ 戦史叢書14 1968, p. 251.
  72. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 496–497明陽丸の沈没
  73. ^ a b 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 9.
  74. ^ a b サボ島沖海戦 1998, pp. 108–111.
  75. ^ ニミッツ 1962, pp. 118a-119小休止
  76. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 252.
  77. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 49–56.、Smith, Bloody Ridge, p. 11 & 16.
  78. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 253.
  79. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 29–30.
  80. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 257.
  81. ^ 戦史叢書14 1968, p. 276.
  82. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 74完成したヘンダーソン飛行場
  83. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 98a日米の飛行場争奪戦
  84. ^ ニミッツ 1962, p. 118b.
  85. ^ Shaw, First Offensive, p. 13. Smith, Bloody Ridge, p. 16–17.
  86. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 301.
  87. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 303.
  88. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 236–237ツラギ所在部隊の緊急電
  89. ^ a b 戦史叢書14 1968, pp. 255–257第十七軍の状況判断
  90. ^ 戦史叢書49 1971, p. 445a第十七軍
  91. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 140–141第十七軍
  92. ^ 戦史叢書49 1971, p. 445b.
  93. ^ 戦史叢書14 1968, p. 256.
  94. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 272.
  95. ^ a b c d e 戦史叢書14 1968, p. 274.
  96. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 279.
  97. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 259.
  98. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 31.
  99. ^ 戦史叢書49 1971, p. 507.
  100. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 509.
  101. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 100–101.
  102. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 111.
  103. ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 183.
  104. ^ 倉橋 1987, pp. 91–93精強純朴な旭川兵士
  105. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 143–144大本營の作戦指導/八月七日
  106. ^ a b #S17.05呉鎮日誌(3) pp.43-44〔 廿七日一六三〇 大海一部長|廿八日〇二五〇 3F参謀長(GF参謀長)(呉鎭参謀長)(外)|大海機密第一七六番電 陸軍輸送船ぼすとん丸(JMCD)及大福丸(J1JB)在大島一木支隊(約二〇〇〇名)還送ノ爲宇品ニ於テ二十八日出港準備完成豫定ニ付第十戰隊ノ一部ヲシテ之ガ護衛(往復共)ヲ實施セシメラルル様取計ハレ度/尚出港日時航路等ニ關シテハ護衛指揮官ト宇品船舶輸送司令部ト直接協定セシメラレ度|無電 〕-〔 廿八日一二〇〇 呉鎭参謀長|10S司令官(大海一部長 外)|呉鎭機密第九四三番電 大海機密第一七六番電ニ關シ船舶輸送司令部ト連絡ノ結果左ノ通 一、ぼすとん丸及大福丸ハ二十九日夕刻迄ニ門司ニ於テ出港準備完成待機ス/二、護衛打合ハ門司若ハ護衛指揮官指定ノ集合地孰レニ於テ行ハルモ差支ナシ|無電 〕
  107. ^ 戦史叢書14 1968, p. 275.
  108. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 187–188一木支隊の指揮問題紛糾
  109. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 538–539船団部隊のグァム、トラック帰投
  110. ^ 戦史叢書62 1973, p. 84a陸軍一木支隊の「ガ」島派遣決定
  111. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 446–447聯合艦隊
  112. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 141–142聯合艦隊の作戦指導
  113. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 149.
  114. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 505.
  115. ^ 戦史叢書14 1968, p. 247.
  116. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 280.
  117. ^ 戦史叢書77 1974, p. 148aガ島方面の偵察
  118. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 512.
  119. ^ a b c d 戦史叢書77 1974, p. 150.
  120. ^ a b c d e f 戦史叢書77 1974, p. 154b.
  121. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 151–152陸海軍中央協定
  122. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 92a-93「ガ」島奪回作戦要領の明示
  123. ^ 戦史叢書102 1980, p. 400カ号作戦 陸海軍中央協定によるソロモン群島要地奪回作戦。キ号作戦(後述)を含む(昭和17.8.陸海軍)
  124. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.17-18〔第八艦隊 第十一航空艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊 第二、第三艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊及陸軍第十七軍(歩兵約十三個大隊)ヲ以テ「ガダルカナル」「ツラギ」方面攻略奪回ニ決ス/本作戰ヲ「カ」号作戰 第十七軍 第八艦隊 第十一航空艦隊間ノ協定ニ依ル作戰ヲ「キ」号作戰ト呼稱ス 〕
  125. ^ 戦史叢書102 1980, p. 401キ号作戦 一木支隊のガダルカナル島への輸送作戦(昭和17.8.陸海軍)
  126. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 84b.
  127. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 296–299一木先遣隊のタイボ岬上陸
  128. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 98–99 and Smith, Bloody Ridge, p. 31.
  129. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 511.
  130. ^ 青春の棺 1979, pp. 117–118.
  131. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 284.
  132. ^ 青春の棺 1979, pp. 121–122.
  133. ^ 戦史叢書14 1968, p. 283.
  134. ^ 戦史叢書49 1971, p. 513.
  135. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 154c-155.
  136. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 292a-294一木支隊の攻撃/陸海軍現地協定
  137. ^ 戦史叢書49 1971, p. 517.
  138. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 155a-156一木支隊の輸送/現地協定
  139. ^ a b c d e 戦史叢書77 1974, p. 156.
  140. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 292b.
  141. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 293.
  142. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 297.
  143. ^ 倉橋 1987, p. 92.
  144. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 289a-291第十七軍司令部における論争
  145. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 154a-155第十七軍の兵力運用
  146. ^ 戦史叢書14 1968, p. 290.
  147. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 291.
  148. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 518.
  149. ^ 戦史叢書14 1968, p. 295.
  150. ^ 戦史叢書14 1968, p. 286.
  151. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 33.
  152. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 152.
  153. ^ 川口 (1960), p.197
  154. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 448–451大本營海軍部及び陸軍部
  155. ^ 城英一郎日記 1982, p. 176(昭和17年8月13日記事)
  156. ^ 戦史叢書14 1968, p. 296b.
  157. ^ a b 野分物語 2004, pp. 28–29.
  158. ^ 戦史叢書77 1974, p. 157c.
  159. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 289b.
  160. ^ a b c 宮崎周一中将日誌 2003, pp. 278–279.
  161. ^ 倉橋 1987, p. 93.
  162. ^ 野村實 1988, pp. 117–118旅順攻撃に似ていたガ島攻撃
  163. ^ 城英一郎日記 1982, p. 177a(昭和17年8月14日記事)
  164. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 298.
  165. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 96a-97「ガ」島奪回作戦部隊のトラック出撃
  166. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 299.
  167. ^ 戦史叢書49 1971, p. 519.
  168. ^ 戦史叢書14 1968, p. 294.
  169. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 158a.
  170. ^ 城英一郎日記 1982, p. 177b(昭和17年8月16日記事)(中略)午前、昨日の情報を上聞す。「ソロモン」方面の上陸及「ブナ」作戦につき改めて御格戸にて御下問あり、ガダルカナル奪回上陸予定言上。
  171. ^ 青春の棺 1979, p. 122.
  172. ^ 青春の棺 1979, pp. 126–129.
  173. ^ 戦史叢書14 1968, p. 302=.
  174. ^ 土井 2009, p. 49.
  175. ^ 城英一郎日記 1982, p. 178(昭和17年8月18日記事)(中略)「ソロモン」方面の戦闘につき、仝地奪回及モレスビー作戦一段落の時機に、勅語御下賜の思召あり。/ガダルカナル方面、一部陸戦隊増援、設営隊と連絡す。本方面及ブナ方面の上陸につき、御下問あり。
  176. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 520.
  177. ^ 戦史叢書49 1971, p. 523.
  178. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 304–306.
  179. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 158b-160川口支隊のガ島派遣計画
  180. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 160b.
  181. ^ 倉橋 1987, pp. 95–98ガダルカナル突入
  182. ^ 戦史叢書49 1971, p. 35.
  183. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.18〔八月十八日 佐五特派遣隊(二〇〇名)「タイボ」ニ揚陸成功 第四駆逐隊ハ佐五特派遣隊揚陸後「ルンガ」方面ヲ砲撃 海上トラック二撃沈 三ヲ大破ス 萩風空襲ニ依リ損害ヲ受ク 〕
  184. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 535.
  185. ^ 戦史叢書77 1974, p. 161.
  186. ^ a b c d 日米諜報戦 2016, p. 155.
  187. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 99–100 and Smith, Bloody Ridge, p. 29 & 43–44.
  188. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 173–175.
  189. ^ 倉橋 1987, pp. 102–104敵魚雷艇数隻撃沈
  190. ^ 倉橋 1987, p. 97.
  191. ^ 倉橋 1987, pp. 101–102味方潜水艦
  192. ^ 倉橋 1987, pp. 106–110萩風被爆す!
  193. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 534.
  194. ^ a b ラバウル海軍航空隊 2001, p. 102.
  195. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 539.
  196. ^ #第六戦隊日誌(5)p.28(昭和17年8月19日~20日行動)
  197. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 216(昭和17年8月19日記事)
  198. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.55(昭和17年8月19日記事)
  199. ^ a b 平塚、米軍記録 1995, p. 77.
  200. ^ a b c d 土井 2009, p. 50.
  201. ^ Frank, Guadalcanal, p. 148, Jersey, Hell's Islands, p. 205.
  202. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62.
  203. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 76.
  204. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 307.
  205. ^ 日米諜報戦 2016, p. 156.
  206. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62
  207. ^ Frank, Guadalcanal, p. 149.
  208. ^ Frank, Guadalcanal, p. 150.
  209. ^ a b Hammel, Carrier Clash, p. 135.
  210. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 67.
  211. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102.
  212. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 308.
  213. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 163b.
  214. ^ 戦史叢書49 1971, p. 538.
  215. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 217(昭和17年8月20日記事)敵現る 0930 ツラギ南東 A×2、C×6、d×12、T多数
  216. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 163a-164敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出
  217. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 103.
  218. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 104.
  219. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 322–323八月二十日の輸送船団
  220. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 98b-99進出第一陣は海兵隊
  221. ^ a b 護衛空母入門 2005, p. 225.
  222. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 98c-99.
  223. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.55-56(昭和17年8月20日記事)
  224. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 218a(昭和17年8月21日記事)曇雨、視界不良のため敵情を得ず
  225. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 218b.
  226. ^ 戦史叢書49 1971, p. 550.
  227. ^ 戦史叢書49 1971, p. 552.
  228. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 309.
  229. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 58.
  230. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102, Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290, and Smith, Bloody Ridge, p. 58–59.
  231. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 310.
  232. ^ Jersey, Hell's Islands, p. 210, Hammel, Carrier Clash, p. 137.
  233. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 68.
  234. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153.
  235. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 62–63.
  236. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103.
  237. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153, and Smith, Bloody Ridge, p. 63.
  238. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103–104.
  239. ^ Hammel, Carrier Clash, p. 141.
  240. ^ a b Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 69.
  241. ^ Frank, Guadalcanal, p. 154 and Smith, Bloody Ridge, p. 66.
  242. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290.
  243. ^ a b c d e 平塚、米軍記録 1995, p. 79.
  244. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 80.
  245. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 81.
  246. ^ Frank, Guadalcanal, p. 157.
  247. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 107
  248. ^ Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85
  249. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 312–313.
  250. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 313.
  251. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 537.
  252. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.56-57(昭和17年8月21日記事)
  253. ^ 戦史叢書77 1974, p. 167.
  254. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 314.
  255. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 315.
  256. ^ ニミッツ 1962, p. 121.
  257. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 176a第二梯団の輸送失敗
  258. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 221(昭和17年8月25日記事)敵主力南東に退却 敵空母2隻大火災 味方輸送艦隊避退す ガダルカナル上陸また1日遅る 策戦一喜一憂なり
  259. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 176b輸送方法の転換
  260. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 331–333船団輸送の中止とのそ波紋
  261. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 102b-103川口支隊が上陸
  262. ^ 土井 2009, p. 95一木支隊鎮魂碑(平成4年9月撮影)
  263. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 211a-212ガ島飛行場
  264. ^ 戦史叢書14 1968, p. 211b.
  265. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 84–86伸び過ぎた作戦線
  266. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 64aガ島に飛行場を建設せよ
  267. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 67–68SN作戦
  268. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 220–221航空基地の整備
  269. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 213.
  270. ^ 土井 2009, pp. 251–252ガダルカナル島戦史 略年表
  271. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 204–207ミッドウェー海戦後の編制改正
  272. ^ サボ島沖海戦 1998, pp. 42–43.
  273. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 81.
  274. ^ 生出、辻政信 2007, pp. 287–288.
  275. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 21–22.
  276. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 29第十七軍司令官は七月二十四日ラバウルに進出し南海支隊主力はラバウルに在り其の一部は既にブナに進出しあるも第十七軍主力は尚遠くパラオ及ダバオ附近に在り。
  277. ^ 生出、辻政信 2007, p. 290.
  278. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 194–195.
  279. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 207–209第八艦隊の統帥の発動
  280. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 23–26.
  281. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 195–198陸海軍現地協定
  282. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 197–198.
  283. ^ 完本太平洋戦争(上) 1991, p. 222.
  284. ^ 戦史叢書14 1968, p. 215.
  285. ^ サボ島沖海戦 1998, pp. 44–45.
  286. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 216.
  287. ^ 戦史叢書14 1968, p. 222.
  288. ^ 戦史叢書14 1968, p. 223.
  289. ^ 戦史叢書77 1974, p. 132.
  290. ^ 戦史叢書14 1968, p. 226.
  291. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 86.
  292. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 225–226第二十六航空戦隊の南太平洋方面進出計画
  293. ^ 戦史叢書102 1980, pp. 132–133(昭和17年8月7日)米軍反攻開始
  294. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 65海兵一個師団、ガ島に上陸
  295. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 258.
  296. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 144.
  297. ^ 戦史叢書14 1968, p. 270.
  298. ^ 倉橋 1987, pp. 89–91腰の定まらぬ大本営
  299. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 146–148第一次ソロモン海戦
  300. ^ a b 第十七軍作戦(1) 1946, p. 32.
  301. ^ 戦史叢書77 1974, p. 147.
  302. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 286–287ソロモン群島奪回作戦に関する陸海軍の中央協定
  303. ^ 戦史叢書77 1974, p. 148b.
  304. ^ 戦史叢書14 1968, p. 281.
  305. ^ 潜水艦作戦(S1708からS1803) 1948, pp. 10–11.
  306. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 51–52.
  307. ^ 戦史叢書49 1971, p. 532.
  308. ^ 草鹿回想 1979, pp. 150–151艦隊の編制替え
  309. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 431–432聯合艦隊主力
  310. ^ 草鹿回想 1979, p. 161.
  311. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 164.
  312. ^ 生出、辻政信 2007, p. 298.
  313. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 112.
  314. ^ 草鹿回想 1979, pp. 162–163優秀装備の前に一木支隊壊滅
  315. ^ 戦史叢書77 1974, p. 168.
  316. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 104–105潜水部隊の集中
  317. ^ 潜水艦作戦(S1708からS1803) 1948, pp. 16–18第一、第一、第三潜水部隊の敵機動部隊の邀撃 ガ島増援阻止並奪囘作戰
  318. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 88.
  319. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 83–84龍驤の安らかな最期
  320. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 113.
  321. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 585.
  322. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 89.
  323. ^ 戦史叢書62 1973, p. 104b.
  324. ^ 生出、辻政信 2007, p. 300.
  325. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 114.
  326. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 37.
  327. ^ Mark DiIonno (2010年2月21日). “HBO series illuminates N.J. Marine's book on World War II experience”. NJ.com. 2010年3月16日閲覧。




このページでは「ウィキペディア」からイル川渡河戦を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からイル川渡河戦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からイル川渡河戦を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イル川渡河戦」の関連用語

イル川渡河戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イル川渡河戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイル川渡河戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS