第三十一駆逐隊
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1943年(昭和18年)2月25日、清波は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将・海軍兵学校42期)麾下の第三十一駆逐隊に編入され、同駆逐隊は夕雲型駆逐艦4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。第三十一駆逐隊の編制は第1小隊1番艦大波、2番艦清波、第2小隊3番艦巻波、4番艦長波に変更されている。同隊司令は香川清登大佐。 2月27日-28日、清波は駆逐艦海風(第24駆逐隊)とともに特設巡洋艦盤谷丸(大阪商船、5,351トン)および西貢丸(大阪商船、5,350トン)を護衛して横須賀を出港し、トラック諸島に向かう。輸送船2隻には、佐世保鎮守府第七特別陸戦隊(司令菅井武雄中佐)が乗船していた。3月8日、船団はトラックに到着。戦艦武蔵(連合艦隊旗艦)で打ち合わせしたのち、佐鎮七特の目的地はニュージョージア島ムンダからギルバート諸島のタラワに変更される。清波と同行する艦艇が駆逐艦大波に代わり、清波と大波、盤谷丸と西貢丸は3月12日にトラックを出港してタラワに向かった。3月17日、船団はタラワに到着し、海軍陸戦隊を揚陸する。後日、佐世保第七特別陸戦隊は同年11月下旬のタラワの戦いで玉砕した。 3月20日、船団(大波、清波、盤谷丸、西貢丸)はタラワを出発する。他艦と別れた清波はクェゼリン環礁に回航され、輸送船「天城山丸」(三井船舶、7,620トン)の護衛をまかされた。敷設艦常磐の機雷兵もクェゼリンで清波に乗艦した。22日、清波と天城山丸はクェゼリンを出港し、3月25日にトラックに帰投した。つづいて26日に靖国丸の護衛に出向き、27日トラックに帰投した。 4月8日、大波と清波は第二海上護衛隊の指揮下に入った。内南洋部隊に編入される。4月11日、トラック泊北水道出口で伊号第十六潜水艦が雷撃を受けたため、清波は第二十七駆逐隊(時雨、有明)と対潜掃蕩を実施した。同日1930、清波は敵潜撃沈おおむね確実を報告する。現場指揮官原為一第二十七駆逐隊司令(司令駆逐艦、時雨)は対潜掃蕩を派遣艦艇に引き継ごうとしたが、前進部隊指揮官(第二艦隊司令長官、旗艦「愛宕」)は「右の撃沈(清波の撃沈報告)は認められず」として掃蕩続行を命じる場面もあった。3隻の対潜掃蕩は4月13日までおこなわれた。 その後も5月10日までの間、第四根拠地隊および第二海上護衛隊の指揮下にてトラックとラバウル、カビエン方面での船団護衛に従事した。 6月5日、駆逐艦清波、萩風、潮は、空母雲鷹と冲鷹の横須賀回航を護衛する事になった。トラックを出発し、本土へ向かう。6月9日、空母2隻は横須賀に到着した。 6月中旬、清波は第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下に入る。6月16日、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡洋艦五十鈴(第十四戦隊)は横須賀を出撃した。これらを、第二十七駆逐隊(時雨、初春、夕暮)、第七駆逐隊(潮、曙、漣)、第十六駆逐隊(雪風)、第十七駆逐隊(浜風、谷風)、第二十四駆逐隊(涼風)、秋月型駆逐艦新月、第三十一駆逐隊(清波)が護衛する。アメリカ潜水艦スピアフィッシュと遭遇したものの被害はなく、6月21日栗田部隊はトラック泊地に到着した。
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