第二十七駆逐隊
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「白露 (白露型駆逐艦)」の記事における「第二十七駆逐隊」の解説
「白露」の修理中も戦局は動いていた。7月12日、コロンバンガラ島沖海戦に参加した第二水雷戦隊司令部は、司令官伊崎俊二少将及び司令部要員ごと旗艦「神通」と共に沈没した。そこで日本海軍は消耗していた第四水雷戦隊を解隊し、同隊戦力と司令部をそのまま第二水雷戦隊に転用した。これにより第27駆逐隊も第二水雷戦隊所属となる。また「時雨」が『呉の雪風、佐世保の時雨』と謳われるようになったのもこの時期である。だが7月20日、第27駆僚艦「夕暮」が米軍機の空襲を受け沈没。7月24日、27駆僚艦「有明」が座礁後に空襲を受け沈没。10月15日附で第27駆逐隊から除籍され、同隊は「時雨、白露」の2隻になってしまった。同時期、第2駆逐隊も「夕立、村雨」を喪失して「春雨、五月雨」の2隻体制となっており、7月1日附同隊解隊。その後、「五月雨」は10月1日附、「春雨」は11月30日附で第27駆逐隊に編入された。ここに第27駆逐隊は白露型4隻(白露、時雨、五月雨、春雨)で行動することとなった。 詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 修理完成後の「白露」は再びソロモン諸島方面に進出、「時雨、五月雨」と合流した。11月2日、第27駆逐隊は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治少将:旗艦「川内」)の直率で米軍巡洋艦部隊と交戦する(ブーゲンビル島沖海戦)。本海戦で「白露」は0052至近弾により舵故障、そのため「五月雨」と衝突して損傷し、「白露」は最大速力16ノット、「五月雨」は20ノットになった。ラバウルへ帰投後、「時雨、白露」は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛して内地へ帰投、佐世保工廠で修理を行った。 1944年(昭和19年)1月以降、船団護衛等に従事。2月には大和型戦艦「武蔵」の護衛を複数回にわたって行う。2月10日トラック→14日横須賀(武蔵、軽巡大淀、白露、初春、満潮、玉波)。24日横須賀→29日パラオ(武蔵、白露、満潮、藤波)。24日、悪天候の中で白露一番砲塔照準口が破損、修理中の少尉候補生1名が波浪にさらわれ行方不明となった。3月29日、連合艦隊司令部はパラオ大空襲を回避するため主力艦をパラオから脱出させた(海軍乙事件)。「武蔵、愛宕、鳥海、高雄、春雨、白露、満潮、藤波、浦風、磯風、谷風、浜風」は外洋へ出る。ところが「武蔵」は米潜水艦「タニー」に襲撃され、魚雷1本命中により小破。連合艦隊司令部は「武蔵」の直衛を第17駆逐隊(浦風、磯風、谷風、浜風)から「白露、藤波、満潮」に入れ替え、「武蔵」を含む4隻を呉へ回航させた(4月3日着)。 詳細は「渾作戦」を参照 5月下旬より第27駆逐隊(白露、時雨、五月雨、春雨)はビアク島への輸送作戦(渾作戦)に加わる。6月2日の第一次渾作戦では戦艦「扶桑」、重巡洋艦「青葉、羽黒、妙高」等と出撃したが、米軍出現の情報によりソロンへ入港した。6月7日、ビアク島増援のため第二次渾作戦に従事、陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波、浦波、時雨、白露、五月雨、春雨)とソロンを出発するが、第27駆逐隊司令艦「春雨」が米軍爆撃機の攻撃で沈没、駆逐隊司令白濱政七大佐が戦死した。「白露」も機銃掃射を受け4名戦死、5名の重傷者を出した。戦闘終了後、僚艦と共に春雨乗組員を救助する。8日にビアク島北西で巡洋艦3隻・駆逐艦14隻(日本側は戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦8と誤認)で編成された米艦隊と交戦する。「時雨、五月雨」等が小破し、増援作戦は中止された。「白露」は魚雷8本を発射したが戦果はなく。第27駆逐隊は米艦隊の砲撃を振り切って退避に成功した。
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