第一次渾作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:51 UTC 版)
南西方面艦隊は意見具申の前の5月24日には南方軍よりミンダナオ島サンボアンガにいた陸軍の海上機動第2旅団の海上輸送協力について打診されていた。渾作戦に当たりこれが増援部隊として選ばれた。同旅団は、もともと逆上陸作戦の専門部隊として編成された部隊で、ニューギニア方面へ向かう途中で輸送船が攻撃を受けてミンダナオ島へ待機中だった。 5月29日、日本側においてはニューギニア方面部隊よりニューギニア中部北岸のホーランジアフンボルト湾に敵艦隊発見の報告があった。 6月2日、増援部隊を乗せた艦隊はミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島へ向かった。艦隊は以下の編成で左近允尚正少将が指揮した。 輸送隊本隊:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「敷波」、「浦波」、「時雨」 輸送支援隊:敷設艦「津軽」、「厳島」、第127号輸送艦、第36号駆潜艇、第37号駆潜艇 警戒隊:重巡「妙高」、「羽黒」、駆逐艦「白露」、「五月雨」、「春雨」 間接護衛隊:戦艦「扶桑」、駆逐艦「風雲」、「朝雲」 3日、渾部隊は敵哨戒機に発見された。当時アメリカ海軍の空母機動部隊は6月15日のサイパン侵攻へ向けマーシャル諸島のメジェロに集結しており、ビアク島方面の海上戦力はオーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」を旗艦とした重巡一隻(「オーストラリア」)、軽巡三隻(「ボイシ」・「フェニックス」・「ナッシュビル」)、駆逐艦10隻程度の艦隊しかなかった。 ビアク島の戦いの指揮を取っていたダグラス・マッカーサーは急遽この米豪混成の艦隊を日本艦隊の迎撃に向かわせた。この部隊には戦艦はなく、戦艦扶桑と重巡三隻からなる渾部隊には戦力的には劣っていたがマッカーサーは苦悩の末に出撃させた。 一方で連合艦隊司令部は3日、「アメリカ海軍の空母機動部隊がニューギニア方面の海域で行動中の公算大」と報じ、3日夜には部隊は作戦を中止してソロンへ向かうよう命じられた。4日昼、陸軍の偵察機から空母二隻、戦艦三隻からなるアメリカ機動部隊発見の報告があったためソロンに到着すると陸軍部隊は揚陸され、艦隊はアンボンへ退避を命じられた。この敵機動部隊は実際には上記の重巡「オーストラリア」を中心とする艦隊の誤認であった。その後、海軍の索敵機の再偵察により機動部隊発見は誤報と判明したが、既に陸軍部隊は揚陸済みで駆逐艦も燃料が無く、後の祭りだった。 陸軍第二方面軍司令官の阿南惟幾中将はこれについて「煮え湯を呑まされた感がする」と日記に書きつけた。「扶桑」士官によれば、「扶桑」と「青葉」がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという。
※この「第一次渾作戦」の解説は、「渾作戦」の解説の一部です。
「第一次渾作戦」を含む「渾作戦」の記事については、「渾作戦」の概要を参照ください。
- 第一次渾作戦のページへのリンク