第一次王政復古(1814年)
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「フランス復古王政」の記事における「第一次王政復古(1814年)」の解説
「ルイ18世 (フランス王)」も参照 1814年のルイ18世の復位は、ナポレオンの治世下の元外相タレーランが戦勝国に対してブルボン朝再興を唱え、これに協力したことによるところが大きかった。戦勝国は君主候補についてまとまっておらず、イギリスとしてはブルボン家の者を希望しており、オーストリアとしてはナポレオンの皇子フランソワ・ボナパルトを頂くマリー=ルイーズの摂政政治を検討しており、ロシアとしてはオルレアン公爵ルイ・フィリップでも、かつてのナポレオン麾下の元帥で現スウェーデン王太子のジャン=バティスト・ベルナドットでもよいという状況であったからである。また、ナポレオンは、国境を1792年当時の状態に戻したうえで帝位にとどまることを1814年2月に打診されたが、これを拒否していた。王政復古の可能性は流動的であったが、戦争に疲れて平和を求める世論や、パリ、ボルドー、マルセイユ、リヨンにおけるブルボン家支持運動も手伝って、戦勝国も妥結した。 ルイ18世は、サン=トゥアン宣言(英語版)に従って、成文・欽定憲法の1814年憲章を発布した。同憲章は世襲貴族議員・勅任議員で構成する貴族院と公選議員で構成する代議院からなる二院制議会の開設を約束したが、その役割は(租税を除き)協賛機関であり、法律の発議権・裁可権、大臣任免権は国王だけにあった。選挙人は大資産家の男子に制限され、人口のわずか1%にとどまった。革命期の法律・行政・経済上の改革の成果はそのまま残された。すなわち、法的平等と市民的自由を保障したナポレオン法典、農民への国有財産(英語版)の売却、新地方区画「県(département、デパルトマン)」の設置は新国王により覆されることはなかった。教会と国家の関係も1801年の協約(英語版)による規律が維持された。同憲章下の復古王政の実情はこのようなものであったが、同憲章の前文では、「朕の王権に基づく自由意思により」同憲章を「下賜し、欽定する」とうたわれていた。 王政復古当初の熱狂が去ると、ルイ18世は、フランス革命の成果に逆行する行為により、選挙権をもたない大多数の人々からの支持を急速に失った。すなわち、象徴的な行為としては、白色旗が三色旗に取って代わり、名目上の国王ルイ17世の後継者としてルイ「18世」という呼称が用いられ、「フランス人の王 (fr:Roi des Français) 」(1791年憲法下のルイ16世の称号)ではなく「フランスの王 (fr:Roi de France) 」という称号が用いられ、ルイ16世とマリー・アントワネットの年忌が特別視されるなどした。目に見えて反発を生じたのは、没収地の奪還を狙うカトリック教会や元亡命貴族から国有財産取得者へ圧力がかけられたことであった。その他ルイ18世に憎悪を抱く者は、軍人、非カトリック教徒、戦後不況と対英輸入により打撃を受けた労働者といった各層に存在した。
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