第一次河東一乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:09 UTC 版)
その結果、東国においては今川氏と北条氏と武田氏が三つ巴の抗争を続けた。しかし、大永6年(1526年)に北条氏とともに駿東郡に侵入した武田軍を撃退したのを機に、武田氏との抗争は収束して氏輝期に向かっていく。これに対して北条氏は、享禄3年(1530年)と天文4年(1535年)に甲斐へ出兵している。また、今川氏と北条氏は関係強化のために、今川氏輝の妹瑞渓院を北条氏綱の嫡男氏康に嫁がせている。一方、武田氏はこれに対抗するために武蔵国において北条氏と対峙していた扇谷上杉家との同盟を図り、上杉朝興の娘が甲斐国守護武田信虎の嫡男・晴信(信玄)の室となるが間もなく死去している。 今川氏では今川氏輝死後の後継者争いの花倉の乱を制し、天文5年(1536年)に当主となった今川義元は翌天文6年(1537年)2月に武田信虎の娘である定恵院を正室に迎え、甲駿同盟が成立した。その背景として、今川氏の立場からすれば花倉の乱による混乱を鎮静化させて国内を安定化させるために、国外における不安材料であった武田氏との連携を望んだのが最大の理由であったと考えられている。 北条氏は甲相国境において武田方と抗争していたため、甲駿同盟の成立を駿相同盟の破綻とみなした北条家当主の氏綱は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、今川家の継承権争いで義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(氏綱娘が堀越六郎室)、井伊氏、三河戸田氏、奥平氏らと手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎と上杉朝興は義元に援軍を送ったものの、河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。しかも、上杉朝興が4月に急逝して幼少の朝定が継承した混乱に乗じて、氏綱は兵を扇谷上杉家の本拠である河越城に向けてこれを攻め落とした。今川・扇谷上杉両家は勢力圏を縮小させてしまい、連合軍の大敗に終わったと言える。 前述のように、今川氏が甲駿同盟を締結した理由は国内の安定に専念する意図があったと考えられ、駿相同盟を破棄する考えはなかったとみられている。しかし、武田氏と敵対する北条氏の反応を読み間違えた結果、北条氏から一方的な攻撃を受ける結果となってしまい、今川氏側には北条氏への強い不信感が残る結果となった。 天文10年(1541年)には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の晴信が当主となり信濃侵攻を開始する。相模でも氏綱が死去し氏康が家督を継承。氏康は河東における今川氏との対峙と並行して北関東への進出を企図し、晴信も佐久・小県において扇谷上杉家の同盟者であった山内上杉家と対峙することになったことで、互いの利害が一致することになり、天文13年(1544年)には武田北条間和議が結ばれるが、実際にはこれが甲相同盟の成立であったと考えられている。なお、天文14年(1545年)に武田軍が伊那郡に出陣した際には北条・今川共に援軍を派遣しており、今川義元もこの情報を入手していたと思われる。
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