継承権争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/15 04:05 UTC 版)
1431年4月30日、子どもがいないブルターニュ公ジャン3世は跡継ぎを指定しないまま死去した。ジャン3世の異母弟でモンフォール伯を相続していたジャン・ド・モンフォールと、ジャン3世の同母弟ギーの娘のパンティエーヴル女伯ジャンヌが相続権を主張した。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王フィリップ6世の妹だったため、ブロワ家にはフランス王国が後ろ盾についた。 ブルターニュは、古代にブリテン島から移住してきたケルト人をルーツに持つブルトン人が住む地方で、当時のフランスから見れば言葉も違う別の国だった。ブロワ家を支援するとはいえ戦線をブルターニュまで拡大するほどの準備ができていなかったフィリップ6世は当初両家に和解を勧めていた。ところが、イングランド王国のエドワード3世がモンフォール家への支援を決めたため、イングランド軍の北部フランスへの侵攻を恐れたフィリップ6世も軍事介入を決断することになった。ジャン・ド・モンフォールは逮捕直前にパリを脱出してナントに逃れ、兵を募った。
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