第一次枝吉城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:51 UTC 版)
天文7年(1538年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政であったが、阿波の細川持隆の支援を得て、翌天文8年(1539年)に船で明石に上陸した。 この時の戦いで、赤松晴政・細川持隆連合軍は、人丸塚(現在の兵庫県立明石公園)付近に布陣し明石正風がいる枝吉城を攻囲した(『赤松記』)。この大軍をみた明石正風は、抵抗するのは不利と思えたのか「和談にいたし」とし降伏を申し出た。これに対して晴政は「明石御赦免」とし和睦を受け入れた。 次いで赤松・細川連合軍は御着城がある常楽寺に布陣した。しかし「すでに御著に御敵居申候」(『赤松記』)とあり、御着城には尼子軍の拠点となってかなりの大部隊がいたらしく、赤松・細川連合軍は別所就治を頼って三木城に移動した。 第二次枝吉城の戦い戦争:攻城戦 年月日:天文23年(1554年)11月2日-天文24年(1555年)1月13日 場所:枝吉城周辺 結果:三好長慶軍の勝利 交戦勢力三好長慶軍 明石某軍 指導者・指揮官三好長慶三好実休篠原長房 明石某 戦力不明 不明 損害なし なし 表示
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