第一次条約(1823年)
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1639年のズハーブ条約(英語版)はオスマン帝国とガージャール朝の国境を定めたが、その後2世紀の長きにわたって、山がちなズハーブ地方では紛争が絶えなかった。オスマン帝国はガージャール朝領のアーザルバーイジャーンから逃げてきた反乱者たちをたびたび受け入れ、これが両国間の緊張を引き起こした。この事態の背後にはロシア帝国がいる。ロシア帝国は当時ギリシャ独立戦争でギリシャを支持しており、その敵国のオスマン帝国に圧力をかけられる相手を探していた。ロシアに焚きつけられたペルシアのアッバース・ミールザー(英語版)王子はクルディスタンとアーザルバーイジャーンを侵攻、オスマン・ペルシア戦争(英語版)が開戦した。バグダード太守はペルシアに侵攻したが撃退され、逆にバグダードを包囲される結果となった。さらにペルシアが1821年のエルズルムの戦い(英語版)で勝利すると、オスマン帝国が折れ、1823年7月28日にエルズルム条約を締結して戦争は終了した。この条約では1639年の国境が再確認され、ペルシアの巡礼者はオスマン帝国内の聖地への通行権を保障された。
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第一次条約
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第一次防壁条約(ハーグ条約、英語: Treaty of The Hagueとも)は1709年10月29日、グレートブリテン王国とネーデルラント連邦共和国(オランダ)のスターテン・ヘネラールの間で締結された。条約により、オランダはイングランドがプロテスタントのハノーファー家に継承されることを保証する代わりに、グレートブリテンはオランダのためにネーデルラント側での防壁の調達を手伝った。具体的にはフュルネー(英語版)、ニーウポールト、イーペル、メーネン(英語版)、リール、トゥルネー、コンデ(英語版)、ヴァランシエンヌ、モブージュ、シャルルロワ、ナミュール、ハレ(英語版)、ダンメ、デンデルモンデ、ヘントでのオランダ駐留軍である。条約は1698年のレイスウェイク条約で定められた、ネーデルラントにおける主な要塞はオランダ軍が駐留する、という条項と同じ原則であった。
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