第一次毛利次郎の乱とは? わかりやすく解説

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第一次毛利次郎の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 19:36 UTC 版)

毛利次郎の乱」の記事における「第一次毛利次郎の乱」の解説

毛利貞元挙兵文明11年1479年)の春とされる反乱に対して惣領山名政豊は、同年7月末に因幡守護山名豊時を、美作には山名政清派遣して鎮圧に当たらせた。9月には山名次郎七郎兄弟加勢させたが、戦況は反守護連合優勢推移し9月10日には惣領である政豊自身但馬下向したが、事態因幡国内の政豊知行分が押領されるまでに発展していた。 『大乗院寺社雑事記によれば9月20日に「因幡国合戦(毛利)方度々打勝了、守護山名散々…」とあり、豊時ら守護方の劣勢伝えられている。反乱は翌12年1480年春に鎮圧されたが、鎮圧に至るまでの経緯不明である。おそらく、政豊自ら鎮圧あたったものと思われ1年以上抵抗した守護連合惣領家軍勢には立ち向かえずにあえなく瓦解した鎮圧後毛利貞元奉公衆身分幸いして厳罰処せられておらず、3年後文明15年1483年)には犬追物参加している。この事実から、毛利氏勢力解体には至っていなかったことが分かる。 なお、『伊勢家書』には文明14年1482年4月伊勢貞宗山名豊時太刀・馬・甲冑などを献上したとあり、反乱を裏で支援をしていたとされる貞宗に豊時が接近していたことが確認されている。また、その翌年7月11月貞宗邸で催され犬追物には豊時と貞元が共に参加し11月犬追物では両者競い合うなど興味深い光景がみられた。

※この「第一次毛利次郎の乱」の解説は、「毛利次郎の乱」の解説の一部です。
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