第一次毛利次郎の乱
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毛利貞元の挙兵は文明11年(1479年)の春とされる。反乱に対して惣領の山名政豊は、同年7月末に因幡守護山名豊時を、美作には山名政清を派遣して鎮圧に当たらせた。9月には山名次郎・七郎兄弟を加勢させたが、戦況は反守護連合の優勢で推移し、9月10日には惣領である政豊自身も但馬へ下向したが、事態は因幡国内の政豊知行分が押領されるまでに発展していた。 『大乗院寺社雑事記』によれば、9月20日に「因幡国合戦、森(毛利)方度々打勝了、守護山名散々…」とあり、豊時ら守護方の劣勢が伝えられている。反乱は翌12年(1480年)春に鎮圧されたが、鎮圧に至るまでの経緯は不明である。おそらく、政豊自ら鎮圧にあたったものと思われ、1年以上も抵抗した反守護連合も惣領家の軍勢には立ち向かえずにあえなく瓦解した。 鎮圧後、毛利貞元は奉公衆の身分が幸いしてか厳罰に処せられておらず、3年後の文明15年(1483年)には犬追物に参加している。この事実から、毛利氏の勢力解体には至っていなかったことが分かる。 なお、『伊勢家書』には文明14年(1482年)4月、伊勢貞宗に山名豊時が太刀・馬・甲冑などを献上したとあり、反乱を裏で支援をしていたとされる貞宗に豊時が接近していたことが確認されている。また、その翌年の7月、11月に貞宗邸で催された犬追物には豊時と貞元が共に参加し、11月の犬追物では両者が競い合うなど興味深い光景がみられた。
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