第二次総攻撃まで
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「第二次総攻撃まで」の解説
1942年9月17日、陸軍参謀総長杉山元陸軍大将は大元帥である昭和天皇にガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること この戦いを受けて第17軍に、関東軍・支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による「鼠輸送」だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できなかった。 そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の間接支援で、ガダルカナル島タサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。10月7日には、先に到着していた増援の歩兵第4連隊が、ヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。 10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。 川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。 詳細は「サボ島沖海戦」を参照 10月11日、ガダルカナル島に対する重火器の輸送とその支援のため、第六戦隊を基幹とする艦隊が出動する。輸送部隊は城島高次海軍少将指揮下の水上機母艦2隻(《日進》《千歳》)と駆逐艦6隻(《秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》)。支援部隊は第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする5隻(第六戦隊《青葉、衣笠、古鷹》、第11駆逐隊第2小隊《吹雪、初雪》)であった。米軍もこれを察知し重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻から成る艦隊を出動させ、支援部隊と交戦する。その間に輸送部隊は20時10分にタサファロングに到着し、輸送物資(15cm榴弾砲4門、野砲2門、牽引車4、弾薬車4、高射砲1門、固定無線1基、陸兵各艦合計675、弾薬糧食等)の揚陸を開始し22時50分に揚陸を終了する。 詳細は「ヘンダーソン基地艦砲射撃」を参照 10月13日、栗田健男中将を司令官とする第二次挺身攻撃隊(艦砲射撃隊 第三戦隊 《旗艦 金剛、榛名》)、(直衛隊 第十五駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第二十四駆逐隊《海風、江風、涼風》)、(前路警戒隊 第二水雷戦隊 軽巡洋艦五十鈴(旗艦)、第三十一駆逐隊《高波、巻波、長波》)が出撃し、ガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う。さらに、翌14日朝はラバウルから飛来した日本海軍航空部隊による空襲、14日夜には重巡洋艦鳥海、衣笠による艦砲射撃が追い打ちをかけた。 これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。一連の事前砲爆撃によってアメリカ軍航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていた。しかし、アメリカ海兵隊は既にヘンダーソンとは別の小規模な戦闘機用の滑走路を完成させており、そちらは稼働していた。このため、第2師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。 第2師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失った川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と1個戦車連隊(戦車・装甲車、75両)を上陸させようとしたがごく一部しか揚陸できなかった。やむなく、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が陽動として行うことになった。だが、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや道を見失った。右翼部隊を指揮していた川口支隊長は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐に迂回攻撃を進言したが、意見が対立し罷免された。 他方アメリカ軍は、10月13日にヌーメアからアメリカル師団の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で脆弱(ぜいじゃく)だったムカデ高地の陣地を補強し、ジャングルに敷設した集音器の数も増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。 10月15日にアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツは、それまで南太平洋戦域のアメリカ軍を統括指揮していた南太平洋軍司令官のロバート・ゴームレー(Robert L. Ghormley)海軍中将を敗北主義であるとして更迭、代わりにウィリアム・ハルゼー海軍中将を起用している。ハルゼーはすぐに現地の指揮官を集めて会議を開き「撤退しようというのか、それとも確保しようとするのか?」と質問した。ヴァンデグリフトは「私は確保できます。だが、いままでよりもっと積極的な支援をお願いします」と答え、ハルゼーは「よろしい。大いにやってみたまえ。できるだけのことを君に約束する」と確言した。
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