第二次組閣とチェコ人宥和策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 09:06 UTC 版)
「エドゥアルト・ターフェ」の記事における「第二次組閣とチェコ人宥和策」の解説
その後自由主義勢力は1873年に始まる大不況への無為無策やベルリン会議(1878年)における対応により支持を失い1879年の帝国議会選挙で議席を半減させた。これを背景に、ターフェは同年8月12日再び首相に任命され、「封建派」と呼ばれた地主層、カトリック教会、老チェコ党などベーメン・ガリツィアの保守的民族政党と協力しドイツ系の自由主義勢力を包囲する保守的な「鉄の環」政権を率いた。これに伴い1863年以来帝国議会をボイコットしていたチェコ系議員は同年10月議会に復帰し、ターフェ内閣は各民族政党の民族主義的主張、特にチェコ系の要求に配慮する政策を進めることになった。1880年に内務省・司法省の省令として発せられた、いわゆる「ターフェ言語令」はその一環であり、チェコ人が多数を占めるベーメン地方においては外務語(官庁の窓口で住民との対応に使用される言語)に限ってドイツ語とチェコ語の対等性を保障するものであった。また1882年にはプラハ大学を「ドイツ語部」と「チェコ語部」に二分する措置がとられた。
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