第二次箕島高校監督時代
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監督退任後はボウリング場・有田国際ボウルに勤務し、そこで接客の仕事に従事し「我慢」と「辛抱」することなどを学んだ。1974年9月に箕島高校野球部監督に復帰してからは、選手の助言もあって、練習の厳しさは変わらないものの試合中はいつも笑顔で接するようになった。それにより選手たちはのびのびとプレーするようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」として高校野球ファンにおなじみとなり阪口慶三、上甲正典など他校の高校野球指導者にも大きな影響を与えた。 また1979年の第51回センバツ大会と第61回選手権大会では、石井毅と嶋田宗彦のバッテリーらを擁し、甲子園大会で当時史上3校目の春夏連覇を達成した。公立校の春夏連覇は箕島高校のみである。特に1979年夏選手権の3回戦、星稜高校との延長18回の大熱戦(箕島の激闘)は、40年以上経った現在でも高校野球史に語り継がれている。 監督後半の1986年には、長男・強がエースとなったが、和歌山県大会の決勝戦で桐蔭高校に敗れている。 1995年の第77回選手権大会直前の8月4日に監督勇退を表明。「腰痛の悪化により、イメージ通りのノックができなくなった」ことを理由に挙げている。春8回、夏6回の合計14回甲子園に出場を果たし、その内春センバツ3回、夏選手権1回の優勝経験を持つ。甲子園大会通算35勝は史上9位。 延長戦での劇的なサヨナラ勝ちが多く、「勝負師」ともよばれた。座右の銘は「一期一会一球」。
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