第二次立憲制期の政党活動
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「トルコの政党」の記事における「第二次立憲制期の政党活動」の解説
トルコにおける政党政治が成立したのは、青年トルコ人革命により政権に就いた結社「統一と進歩委員会」(İttihat ve Terakki Cemiyeti、以下、「統一派(İttihatçı)」と呼称)が、政党として選挙に参加し、議会を通して政権への影響力を行使したことに始まる。 革命直後の1908年に実施された30年ぶりの総選挙では、革命を主導した統一派が勝利し、議会第一党となった。一方、青年トルコ人勢力の多数派であった地方分権派は、プレンス・サバハッティンが率いるオスマン自由党(Osmanlı Ahrar Fırkası)を結成し、総選挙に参加したが、これに敗北した。自由党支持者らは、、1909年に反統一派の蜂起を行ったが、第三軍司令官マフムート・シェヴケト・パシャ(英語版)の支援を受けた統一派に鎮圧された(「3月31日事件」)。 統一派は、自派に近い高級官僚や将軍を大宰相に据え、閣外から政府への影響を行使しようとしたが、統一派が推進した一連の中央集権化政策への反発が強まると、プレンス・サバハッティン派を中心とする反対派各勢力が合同して、1911年11月に「自由連合党」(Hürriyet ve İtilaf Fırkası)を結成し、統一派政権に揺さぶりをかけた。統一派は、翌1912年に議会を解散し、選挙干渉で議席を死守したが、反統一派の高級官僚や有力パシャらと統一派の対立は深まり、統一派は政権から排除された。 バルカン戦争の勃発により、政権の動揺が強まると、1913年1月に統一派のエンヴェルが大宰相府を襲撃し、クーデターで政権を掌握した。統一派は、自派から大宰相を擁立し、入閣したタラト、ジェマル、エンヴェルの3名が政府を牛耳る三頭政治体制が成立した。 統一派による政権は、第一次世界大戦の敗北により、三頭政治体制が崩壊するまで続いた。敗戦後の1918年に、統一派は党の解散を決定し、党幹部は海外に亡命した。国内では、スルタンメフメト6世と、自由連合党勢力が政権を握り、旧統一派勢力の一掃を開始した。
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