第二次移住(1822年-1854年)
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「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」の記事における「第二次移住(1822年-1854年)」の解説
1822年、ラックラン・マッコーリー総督のレポートがイギリス本国で、ノーフォーク島が再度、注目を浴びることとなった。その結果、1824年、ノーフォーク島植民地の再開が実施された。バサースト伯爵は、ブリスベーン総督に対して、ノーフォーク島を流刑植民地で最も厳罰な場所とする方針であった。1825年に再上陸した人間の構成は、軍隊のメンバーを除くと6人の女性と6人の子供、57人の囚人から構成されており、囚人の多くは、技師であった。第二次移住を組織したロバート・タートンは、キングストンにかつての植民地の廃墟を見出したが、2ヶ月の間、吹きさらしのもとで生活した。1825年12月までに、倉庫とFoveauxが建設した総督官邸は再建され、さらに、かつての道路も再建された。 1826年には、ノーフォーク島に居住するすべての女性は自由人であるという政策が取られるようになった。1833年までには、ノーフォーク島に居住する囚人は600人を数えた。この囚人たちが、ノーフォーク島に現在も残る重要な建築物である囚人のバラック(Prisoners’ Barrack)、旧軍のバラック(the Old Military Barrack)、ランバー・ヤード(Lumber Yard)などを建設していった。ノーフォーク島におけるインフラの建設や農業に従事した囚人たちの仕事は夜明けから始まった。模範囚は、農地を耕作する権利を与えられた。 1839年に、トーマス・ブンベリー(Thomas Bunbury)がノーフォーク島の総督に就任すると、ノーフォーク島の農業の近代化が推進された。前任のジョセフ・アンダーソン(Joseph Anderson)は、島内の農業で鋤を使うことを禁止していたが、彼は、再び、島内に鋤を導入した。また、サイロを建設し、ウォーターミル・ダムのシステム改修も実施した。1839年の島内の人口は、囚人1,200人及び180人の軍関係者であった。この人口は、1840年の段階では、1,872人の囚人を数えるようになった。この数字は、ノーフォーク島流刑植民地における囚人人口の数字では、最大の数字である。1840年に、ノーフォーク島総督に就任したアレクサンダー・マコノチー(Alexander Maconochie)はキングストンにおける住居不足や学校が存在しないことを記録している。こういった背景から、1840年から1841年にかけて、プロテスタント及びカトリックの礼拝堂の建設が実施された。さらに、1842年から1844年にかけて、クオリティ・ロウ(Quality Row)とよばれる道路沿いには、新しく住居が建設された。とはいえ、マコノチーの建設計画は、批判の対象とされた。ジョセフ・チャイルズ(Joseph Childs)が1844年に、ノーフォーク島の総督として就任すると、穏健的だったマコノチーの政策を改め、ヴァン・ディーメンズランド植民地で実施していた懲罰と規律を主とする統治政策を実施した。チャイルズは、1846年7月1日に発生した、いわゆる「Cooking Pot Uprising」と呼ばれる反乱で、総督を辞職した。 1846年8月、チャイルズに代わり、ジョン・プライス(John Price)がノーフォーク島の総督に就任した。プライスは、先の反乱に参加した囚人たちを処断した。死刑処分を受けた囚人たちは、今日、「Murderer’s Mound」と呼ばれる墓地に埋葬された。プライスは、1847年も、ノーフォーク島の統治に従事し、新しい牢獄も建設されたが、チャールズ・アウグストゥス・フィッツロイ(英語版)ニューサウスウェールズ総督の命令によって、ノーフォーク島流刑植民地の廃止が決定された。その後、1854年までの8年間で、ノーフォーク島にいた囚人は、徐々に、島外に移された。プライスは、1853年にノーフォーク島を去り、1854年には、119人の囚人が残すのみとなった。こうして、第二次入植が終了した。
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