第二次管領就任とは? わかりやすく解説

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第二次管領就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:30 UTC 版)

斯波義淳」の記事における「第二次管領就任」の解説

正長2年1429年8月かねてより管領職の辞意表明していた畠山満家後任として、新将軍義教は義淳にその白羽の矢立て事となった。自身2度目管領就任命じられた義淳ではあったが、これを頑なに固辞する事になる。8月19日義教武衛家の執権である甲斐将久(常治)を御所召し、義淳の管領就任命じたが、これを将久より聞いた義淳は翌20日に早速満済訪ねて後任管領は他の者に命ずるよう将軍要請する旨を伝えた翌日満済は義淳の管領辞退の旨を義教伝えたが、義教はこれを許さず重ねて管領就任を義淳へ命ずると同時に再度甲斐将久御所召し出して満済と共に義淳の管領就任強く迫った。これに対して将久は「我が主君(義淳)が管領となれば正常な政治行われず天下必ずや大事が起こり、それは将軍為にならない」と述べて前日の義淳と同じよう管領就任固辞して退出した想像以上の義淳の管領就任辞退対する強い姿勢に、義教満済は翌22日重臣山名時熙(常熙)・細川満久赤松満祐の3名を召しだして意見求めると、3名とも「なおも重ねて義淳に管領就任命ずるべし」との答え出したこのため義教幕臣伊勢貞経大館満信使者として義淳に管領就任迫ったが、義淳は将久を伴って満済訪ねあくまでも固辞する意思伝えて義教へのとりなし依頼した翌日満済は義淳の管領辞退の旨を義教伝えたものの義教諦めず24日には三度甲斐将久と、今度織田氏朝倉氏武衛家重臣の両名御所召し出すと、義淳の管領就任への説得強く命じた。しかし将久は「先日申したように主君義淳は管領の器では無く公方様を思うが故にそのような管領就任の)説得出来ない」と断り織田朝倉両名もこれに同意して退出してしまった。 窮した義教は「重職たる管領人事変更する先例など無い」と何度でも義淳を説得する決意表しついには自ら武衛邸に乗り込む構えまで見せ始めるに至った。その前例の無い行為慌てた満済は、将軍御内書携えて自分武衛邸に赴いて義淳の説得に当たることにし、巳の初刻から申の刻に及ぶ長時間問答結果、ついに義淳は管領就任受諾した将軍義教御内書(「満済准后日記」) 管領職事。以別儀領掌候者為悦(候)。尚々不可辞退之儀候也。 八月廿四日 御判義教左兵衛佐斯波義淳)殿 こうして将軍義教満済説得根負けした義淳は20年ぶりに管領職に再任され、同月28日義教鎧着初式の日に新管領として初め出仕し評定始に臨む事となった。しかし、就任からわずか1年後永享2年1430年9月頃までには早くも義淳は管領辞職求め始めており、「将軍義教-管領義淳」の体制不安定な状態の中での船出であった

※この「第二次管領就任」の解説は、「斯波義淳」の解説の一部です。
「第二次管領就任」を含む「斯波義淳」の記事については、「斯波義淳」の概要を参照ください。

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