第二次管領就任
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正長2年(1429年)8月、かねてより管領職の辞意を表明していた畠山満家の後任として、新将軍義教は義淳にその白羽の矢を立てる事となった。自身2度目の管領就任を命じられた義淳ではあったが、これを頑なに固辞する事になる。8月19日、義教は武衛家の執権である甲斐将久(常治)を御所に召し、義淳の管領就任を命じたが、これを将久より聞いた義淳は翌20日に早速満済を訪ねて、後任の管領は他の者に命ずるよう将軍に要請する旨を伝えた。翌日満済は義淳の管領辞退の旨を義教に伝えたが、義教はこれを許さず、重ねて管領就任を義淳へ命ずると同時に、再度甲斐将久を御所へ召し出して満済と共に義淳の管領就任を強く迫った。これに対して将久は「我が主君(義淳)が管領となれば正常な政治は行われず、天下に必ずや大事が起こり、それは将軍の為にもならない」と述べて前日の義淳と同じように管領就任を固辞して退出した。 想像以上の義淳の管領就任辞退に対する強い姿勢に、義教と満済は翌22日に重臣の山名時熙(常熙)・細川満久・赤松満祐の3名を召しだして意見を求めると、3名とも「なおも重ねて義淳に管領就任を命ずるべし」との答えを出した。このため義教は幕臣の伊勢貞経・大館満信を使者として義淳に管領就任を迫ったが、義淳は将久を伴って満済を訪ね、あくまでも固辞する意思を伝えて義教へのとりなしを依頼した。翌日、満済は義淳の管領辞退の旨を義教へ伝えたものの義教は諦めず、24日には三度甲斐将久と、今度は織田氏・朝倉氏の武衛家重臣の両名も御所へ召し出すと、義淳の管領就任への説得を強く命じた。しかし将久は「先日申したように主君義淳は管領の器では無く、公方様を思うが故にそのような(管領就任の)説得は出来ない」と断り、織田・朝倉の両名もこれに同意して退出してしまった。 窮した義教は「重職たる管領の人事を変更する先例など無い」と何度でも義淳を説得する決意を表し、ついには自ら武衛邸に乗り込む構えまで見せ始めるに至った。その前例の無い行為に慌てた満済は、将軍の御内書を携えて自分が武衛邸に赴いて義淳の説得に当たることにし、巳の初刻から申の刻に及ぶ長時間の問答の結果、ついに義淳は管領就任を受諾した。 将軍義教御内書(「満済准后日記」) 管領職事。以別儀領掌候者為悦(候)。尚々不可有辞退之儀候也。 八月廿四日 御判(義教) 左兵衛佐(斯波義淳)殿 こうして将軍義教・満済の説得に根負けした義淳は20年ぶりに管領職に再任され、同月28日の義教の鎧着初式の日に新管領として初めて出仕し、評定始に臨む事となった。しかし、就任からわずか1年後の永享2年(1430年)9月頃までには早くも義淳は管領辞職を求め始めており、「将軍義教-管領義淳」の体制は不安定な状態の中での船出であった。
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