管領辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:30 UTC 版)
関東政策が落ち着いた同年9月頃より、義淳は管領辞職を度々申し出るようになる。義淳の管領辞職への意志は、管領の公務である賦手続を停止してでも訴える覚悟であった(『満済准后日記』)。義教や満済はこれを慰留させる為に宿老の山名時熙などを説得に当たらせたが、日を追う毎に義淳の管領辞任への意思は強まり、永享4年(1432年)4月8日には管領辞職を要請する為に満済を訪ねようとした義淳と出京途中の満済がばったりと遭遇し、慌てて逃げ出した満済一行を追いかけて管領辞職を強請する珍事も起こしている(『満済准后日記』)。 このように事あるごとに管領辞職を申し出る義淳であったが、それでも義教がその辞職を許さなかったのは、同年7月に行われる内大臣任官の大饗(祝賀会)を管領義淳に沙汰させようとした為であるといわれる。父義満の先例に倣う事が多かった義教にとって、自らの内大臣任官の大饗の沙汰役は斯波氏の管領でなければならず(義満が内大臣任官時の管領は義淳の祖父義将)、この為義淳に対して大饗が終わるまでは辞任の申し出を猶予するよう求めた。6月13日に嫡男であった義豊が18歳で死去した際も、義淳は大饗の慶事に憚りがあるといってこれを待たずに辞職を願ったが許されず、大饗を沙汰した。管領辞職は義教の左大臣昇任などにより、なおも延長させられ、最終的に義教が富士山遊覧から戻った後の10月10日にようやく辞職することを許された。なお翌日には尾張海東郡守護職を拝している(『看聞日記』)。
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