管領権力の抑制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:49 UTC 版)
4代将軍足利義持以降、幕府の重要案件決定は三管四職等から選ばれた宿老会議が将軍の諮問を受けて行ったり、将軍が宿老に直接諮問したりするようになったことで、管領の権力は低下して宿老会議などの幕府評定の主催者としての要素が強まった。また体面に伴う経済的負担もあったことから畠山満家や斯波義淳などはたびたび辞意を表明し、将軍に慰留されるなどの事態となった。 6代将軍足利義教は奉行人制度や将軍直属軍である奉公衆を強化して将軍親裁を推進して管領による所務沙汰からの排除を図る一方、義教が積極的に行った軍事活動に伴って大量に発生する軍勢催促や戦功褒賞に関する命令を将軍の御内書と並行してその一部を管領奉書で代用させるようになり、軍事面においては管領の役割が広がりを見せた。これは、管領の権限強化を意図したものではなく、反対に将軍による管領への統制を強化しつつその軍事指揮を補佐する役目を担わせることで、将軍主導の政務を確立する意図があったと考えられている。また、義教や8代将軍足利義政は三管領のうちの斯波氏や畠山氏の家督争いに介入し、その後の両家の衰退の遠因となった。 嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると、管領細川持之は直ちに守護を召集して義教の嫡男義勝を7代将軍に擁立、幼少の義勝に代わり管領主導の政治体制を整えて満祐を討伐(嘉吉の乱)、翌嘉吉2年(1442年)に持之が辞任して畠山持国に交代、嘉吉3年(1443年)の義勝死後に弟の義政を8代将軍に擁立してからは政治を主導したが、細川勝元と管領を交代しながら守護家のお家騒動への介入を行い勝元と権力闘争を繰り広げた。やがて持国も自らお家騒動を引き起こして勝元と山名宗全の介入を招き、隠居に追い込まれ失脚した。
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