第二次移送作戦に抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/04/24 17:54 UTC 版)
「モルデハイ・アニエレヴィッツ」の記事における「第二次移送作戦に抵抗」の解説
1943年1月9日にSS全国指導者ハインリヒ・ヒムラー自らがワルシャワを訪れた。まだ4万人のユダヤ人がゲットーにいること(実際には隠れている者たちがもう少し多くいた)を報告されたヒムラーは、さらに8000人のユダヤ人を移送するよう命じた。 ヒムラーの命を受けてSS・警察部隊は1月18日から第二次移送作戦を開始した。これにより6500人のユダヤ人が移送され、1171人のユダヤ人が殺害された。この移送作戦の際にアニエレヴィッツは小グループを率いて武装抵抗を起こした。この武装抵抗によって数名のドイツ人の殺害に成功したが、すぐに応援が駆け付けてきたため、武装抵抗したユダヤ人たちは小さな家屋に追い込まれてそこでほぼ全滅した。しかしアニエレヴィッツ自身は奇跡的に脱出に成功している。 この抵抗運動はこれまで武装抵抗に懐疑的だったゲットー住民からも高く評価された。彼らは第二次移送作戦が最初と比べて小規模ですんだのはドイツ当局が抵抗運動に恐れをなしたからだと考えた(実際にはヒムラーがもともと8000人の移送しか命じていないためだったが)。アニエレヴィッツとユダヤ人戦闘組織の権威は急速に高まり、それはゲットー内で一種の「革命政権」となった。一方ユダヤ人評議会はますます権威を落とした。ユダヤ人評議会議長マレク・リヒテンバウムはドイツ当局からの命令に対して「私はもはやゲットー内に何の権威も持っていない。権威を持っているのは別の組織だ。それはユダヤ人戦闘組織だ」と答えている。 ユダヤ人戦闘組織はドイツ当局がいつゲットー住民移送を再開しても武装抵抗を起こせるよう準備を開始した。ユダヤ人評議会を脅迫してその予算を吐き出させ、またゲットー住民の富裕層に高い税金を課すことで資金を集め、それを武器購入費用にあてた。一般のゲットー住民が隠れ家を作るのに奔走していた1943年1月から4月のあいだ、ユダヤ人戦闘組織の戦闘員たちは戦闘訓練にあけくれていた。
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