第二次白馬山小屋合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:07 UTC 版)
「白馬岳頂上宿舎」の記事における「第二次白馬山小屋合戦」の解説
1961年(昭和36年)3月31日に、白馬館との白馬岳山小屋共同経営協約が解約されたことにより、第二次白馬山小屋合戦が始まったとされている。当時の人気週刊誌『サンデー毎日』と『週刊読売』でこの激しい競争の様子がトップ扱いで報道された。白馬村は信濃四ツ谷駅に村職員を配置し、白馬岳頂上宿舎の宿泊の予約取ったり、登山口の猿倉で予約券の販売を行った。白馬山荘は第3新館まで10余棟増築を繰り返し、日本で最大規模の山小屋となる収容人数を一時1,500名としていた。白馬山荘の敷地が白馬村と富山県下新川郡朝日町にまたがっていたことから、昭和35年度分から固定資産税を朝日町へも納税するようになった。このため白馬山荘の全施設が白馬村にあると主張する太田新助村長は、白馬館の経営者の松沢恒久への批判を強めた。白馬岳頂上宿舎は収容人数を1,000名ほどまで増やしたが、設備を含めた総合面で白馬山荘に見劣りした。さらに白馬村は白馬館への対抗措置として白馬館の白馬尻小屋の隣に大雪渓山荘(村営白馬尻荘)を建設した。白馬村は白馬岳頂上宿舎を白馬館の白馬山荘に負けない建物にするために貨物索道を計画してリフトを造ってみたものの失敗に終わった。
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