政権の動揺
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安元2年(1176年)7月に滋子が死去したことで、今まで隠されていた平氏と後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。最大の庇護者を失った宗盛は年末に権中納言を辞任するが、翌安元3年(1177年)正月に重盛が左大将になったことに伴い、還任して空席となった右大将に任じられた。両大将を平氏が独占する形となったが、宗盛は滋子の猶子であり後白河法皇との関係も良好だった。後白河法皇は2月3日の宗盛の拝賀に、殿上人を遣わしている。 3月、後白河法皇が福原を訪れたことで対立は緩和されたかに見えたが、4月になると延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。後白河法皇は天台座主・明雲を解任・配流とするなど、強硬な態度で臨んだ。この事件で重盛・宗盛は、延暦寺との衝突を何とか回避しようと懸命になっていた。5月末に清盛が上洛して後白河法皇と会談を行ったが、後白河法皇の意思は固く延暦寺攻撃が決定される。その直後の6月1日、西光・藤原成親らによる平氏打倒の陰謀が発覚する(鹿ケ谷の陰謀)。 院近臣の中核だった西光・成親が殺害されたことで、後白河法皇は平氏への屈服を余儀なくされる。重盛も義兄の成親が関与していたことで面目を失い、政治的地位を失墜させた。宗盛も後白河法皇とは近い関係にあり、難しい立場となったことに変わりはなかった。しかし、重盛が事実上の失脚状態となったことで表舞台に立たざるを得ず、翌治承2年(1178年)4月、権大納言になる。 5月24日、徳子の懐妊が明らかとなり、翌月には宗盛の妻・清子が乳母に選ばれた。ところが、清子は腫物が悪化して7月16日に死去してしまう。この時、宗盛は悲嘆のあまり右大将を辞任している。11月に徳子が言仁親王(高倉天皇の第一皇子、後の安徳天皇)を出産すると、ただちに親王宣下と立太子が行われた。宗盛は右大将に復帰して春宮大夫となったが、すぐに大夫の地位を花山院兼雅に明け渡した。妻の死後、宗盛は政治への意欲を失ったらしく、翌治承3年(1179年)2月には権大納言・右大将も辞任してしまう。宗盛の精神的弱さとも言えるが、清盛と後白河法皇の対立の中で苦境に陥ったことも理由の一つと推測される。
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政権の動揺
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「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の記事における「政権の動揺」の解説
冷戦下において欧米や日本などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、破綻をきたし始めた。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、1975年には皇帝の求心力を保つために二大政党制を廃止してラスターヒーズ党(英語版)(復活党)による一党制を行い、バザール商人はそのスケープゴートにされた。 アメリカ合衆国を後ろ盾に独裁を強めるシャーに対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやイラン共産党(トゥーデ党)などソ連が支援する左翼も参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。 モハンマドはテヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの、ホメイニーなどが後からコントロールした事態は収拾がつかず、拡大する一方であった。 この間、1978年8月に皇帝を訪問した最後の外国首脳である中華人民共和国の華国鋒党主席と会談した際には同行した黄華外相がソ連への対抗策を議論しようとするも、モハンマドは古代ペルシアの占星術師の話を持ち出して自らの政権が続くという確信が持てていないことを伝えた。
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