政権の人事と官僚機構内部の対立
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「ムウタディド」の記事における「政権の人事と官僚機構内部の対立」の解説
ムウタディドの政策によってワズィール(宰相)は文民官僚における立場を強めた。そして軍においてでさえもカリフの代弁者として敬意を払われるようになり、この時期にワズィールの影響力は頂点に達した。また、ムウタディドの治世における人事面の特徴は、国家の高位の指導者間で共通していた地位の継続性にあった。ワズィールのウバイドゥッラー・ブン・スライマーン・ブン・ワフブ(英語版)は、治世の開始から901年に死去するまでその地位を保持し続けていた。その後は同様に治世の初期からウバイドゥッラーが首都を不在にしている間に代理を務めていた息子のアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー(英語版)に地位が引き継がれた。ムワッファクに仕え、娘がカリフの息子(ムクタディル)と結婚した古参の解放奴隷であるバドル・アル=ムウタディディー(英語版)も軍の最高司令官の地位に留まり続けた。財務諸庁は、(特にサワードにおいて)治世の初期にはフラート家(英語版)(Banu'l-Furāt)の兄弟であるアフマド・ブン・アル=フラート(英語版)とアリー・ブン・アル=フラート(英語版)によって統制され、899年以降はジャッラーフ家(Banu'l-Jarrāḥ)のムハンマド・ブン・ダーウードとその甥のアリー・ブン・イーサー(英語版)が統制した。11世紀の歴史家のヒラール・アッ=サービー(英語版)は、治世開始当初の統治集団であり非常に効果的で協調が取れていた「ムウタディド、ウバイドゥッラー、バドル、そしてアフマド・ブン・アル=フラートのような、カリフ、ワズィール、最高軍司令官、ディーワーンの長官の四人組は(後の世代には)決して存在しなかった」と指摘している。 一方でマイケル・ボナーが指摘するように、ムウタディドの治世の後半は「軍隊や都市の一般市民の生活の中においても目に付く程の官僚機構内部における派閥争いの増加をみた」。官僚機構内部の二つの支配者層であるフラート家とジャッラーフ家の間の広範な庇護民のネットワークを伴う激しい対立関係はこの時期に始まった。有能であったカリフとワズィールはこの対立を抑え込むことができたものの、その後の数十年間にわたってアッバース朝政府をこの対立関係が支配し、官僚機構内部の派閥は相互に入れ替わり、財貨を収奪するためにムサーダラ(muṣādara)として知られる確立されていた慣行に従ってしばしば前任者に罰金や拷問が課された。さらに、父親からワズィールの地位を継いだアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラーは父親とは全く異なる性格をしていた。ワズィールに任命された直後にはムウタディドを暗殺する陰謀を企て、バドルを自分の計画に巻き込もうとした。バドルは憤慨してその提案を拒否したが、アル=カースィムはカリフの急死によって事の露見と処刑を免れた。その後は新しいカリフのムクタフィーを自分の支配下に置こうと試み、バドルを非難して処刑へ追い込むために迅速に行動を起こし、フラート家に対するさらなる多くの陰謀に関与した。
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