ターフェ言語令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/02 08:49 UTC 版)
次いで問題となったのはチェコ人居住地域の公用語であった。1880年、ターフェ首相(在任:1879年〜1893年)の下で出された内務省・司法省の省令(ターフェ言語令)では、両省のベーメン(チェコ)での出先機関に対し、国の機関で使用される言語を機関内で使われる言語(内務語)と窓口で住民との対応で使われる言語(外務語)に区別し、ベーメンに関しては外務語に限りドイツ語とチェコ語を対等に扱うよう指示したものであった。この言語令は行政上の効率向上と民族運動との妥協の双方を満足させるために出されたものであったが、チェコ人がさらに内務語においてもドイツ語と対等の地位を要求するようになった一方で、ドイツ語以外の言語を習得しないドイツ系住民は、自分たちの公職・教職への任用制限につながりかねない言語令に危機感を抱くようになり、1886年から1890年にかけてベーメンの領邦議会でドイツ系リベラル派の議員が議会をポイコットする「受動的抵抗」を展開し、1888年には帝国議会で116名に及ぶドイツ系議員が言語令反対の法案を提出してチェコ人・ポーランド人と衝突した。
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