政治混乱と収拾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/02 08:49 UTC 版)
この言語令に対し、オーストリア帝国内のドイツ系住民は激しく抵抗し、各地で「テュートン人の憤激」と呼ばれる運動が展開された。帝国議会で少数であったドイツ系議員は議事妨害を繰り返し、ドイツ系住民が多く住む地域ではこの議事妨害を支持・支援する集会やデモがあいついで開催された。議場の混乱を収拾するためバデーニ首相は警官隊を導入して重要法案を成立させようとしたが、ドイツ系住民の街頭行動は激化し、ついに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は治安維持を理由に11月、バデーニを罷免した。1899年、クラリー内閣により改正言語令が撤回されそれ以前のターフェ言語令が復活すると、今度はチェコ系住民が激しく反発し、やはりチェコ系の帝国議会議員が議事をボイコットしたため議会は再び機能停止に陥った。これ以後、内閣は議会に責任を持たない官僚によって担われ、立法は皇帝の非常大権によってなされる事態となった。 その後、1900年に首相に就任したケルバーは、ドイツ系・チェコ系両方の政治家を仲介して新しい公用語案についての協議を開始したため、ようやく混乱は収拾された。
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