政治浄化への執念と軍縮議連会長就任
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「三木武夫」の記事における「政治浄化への執念と軍縮議連会長就任」の解説
三木は首相退任後も、初当選以来一貫して唱え続けてきた政治浄化に向けての活動を続けた。1979年(昭和54年)7月、三木は首相の大平に、カネのかからない選挙を目指した「選挙浄化特別措置法要綱」を提案した。そして1980年(昭和55年)1月号の政策研究誌上で、「政治再建元年」と題し、ロッキード事件後もカネにまつわるスキャンダルが続発している状況を踏まえ、道義的な感覚を持ち、カネによる政治を排することを訴えた。2月には、三木は自民党最高顧問となる。 1982年(昭和57年)8月、文藝春秋誌上で三木は「田中角栄君驕るなかれ」を発表した。これは三木の政治浄化に関する考えの集大成と言えるもので、政治が利権の手段と堕し、金権的な政治体質が蔓延している現状を憂い、政治とカネの問題を解決していくように訴えた。三木は田中にロッキード事件の論告求刑が行われた1983年(昭和58年)1月26日、再び政治浄化の必要性を訴えた。そして一審で有罪判決が下された10月12日、田中に対して議員辞職を促した。 中曽根政権下の12月18日に行われた第37回衆議院議員総選挙の結果、自民党は250議席と敗北した。三木は最高顧問として中曽根の敗北責任を追及したが、中曽根より「いわゆる田中氏の政治的影響力を一切排除する」との総裁声明が出された結果、中曽根に対する批判は鎮静化、続投となった。 1984年(昭和59年)の総裁選時、中曽根に不満を持つ鈴木前首相が中心となって二階堂進を擁立する工作が行われた。鈴木は二階堂を擁立することによって中曽根と田中の間を離間させることを狙ったのである。鈴木はまず福田に擁立工作を持ちかけ、中曽根の政治姿勢に不満を持つ公明党、民社党も工作に巻き込んでいった。三木もまたこの工作に同調したが、肝心の田中が反対したために頓挫し、中曽根が総裁に再選された。 三木は体力の衰えが明らかになってきた1985年(昭和60年)12月に、石川真澄を私邸に呼び、カネのかからない選挙のための法案を考えていると言って意見を求めた。これは脳出血で倒れる半年前のことであり、三木は政治生活の終盤に至るまで政治浄化に執念を燃やし続けていた。 また、平和運動にも積極的に取り組み、1983年9月、国際軍縮促進議員連盟の会長に就任する。三木は平和研究所を設立する構想を持っており、研究所開設時には、スウェーデンのパルメ首相と西ドイツのブラント元首相を日本に招くことを考えていた。そして三木政権で閣議決定した防衛費GNP1パーセント枠制限を1985年、中曽根政権が解禁しようとした際、福田、鈴木の首相経験者とともに反対を表明した。
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