政治活動歴
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1880年(明治13年)、補欠選挙で都筑郡選出の県会議員となる。11月28日に東京の枕橋八百松楼で開かれた神奈川県懇親会の世話人として石坂昌孝ら4人とともに名を連ねる。12月6日の臨時県会では、第1号議案「備荒儲蓄規則」の審議で「備荒儲蓄は人民に欠くべからざるものであって、政府の法がなくとも人民が各自おこなうべきものである」と反対説を唱えた。 1881年(明治14年)2月、大谷教曹、飯塚民治郎とともに池辺村(現在の横浜市都筑区池辺町)に功玉会を設立。下川井村(現在の横浜市旭区下川井町)の桜井光興とともに相東社を設立。10月18日、自由党の結成会議に参加する。11月3日、石坂昌孝が原町田村(現在の東京都町田市原町田)に設立した融貫社の創立委員として、金子馬之助、桜井光興らとともに加わる。 1882年(明治15年)5月、第2回県会議員半数改選にて当選する。7月、融貫社の外郭団体として設立された融貫社講学会の発起人に名を連ねる。 1883年(明治16年)11月23日、東京に在学する神奈川県人の寄宿舎として神田錦町に開設された静修館の館主となる。静修館に在館した学生には、大矢正夫、北村門太郎らがいる。 1884年(明治17年)3月13日、浅草井生村楼で開催された自由党大会に神奈川県総代として参加し、役員改選により幹事となる。8月、石坂昌孝らとともに武相困民党事件の仲裁人となる。当時の武相の自由党内には困民党を「貧民」「窮民」として同情するグループと「乱民」「暴民」として敵視するグループがあったが、石坂昌孝や佐藤貞幹は前者だった。10月29日、大阪北野太融寺で開かれた自由党の解党大会で解党大意を朗読し、残務委員を嘱託される。 1885年(明治18年)4月、国会の早期開設を求める「国会短縮議建白」を石坂昌孝らとともに元老院に提出する。9月、県会議員を辞職する。 1889年(明治22年)4月、県会議員の補欠選挙に当選する。 1890年(明治23年)4月、県会議員を辞職する。7月、第1回衆議院議員総選挙に神奈川第ニ区(橘樹郡・都筑郡・久良岐郡)から出馬するが、4位で落選する。当選者は山田泰造。 1891年(明治24年)9月、添田知義が提唱して結成された橘樹郡・久良岐郡・都筑郡の地価修正同盟に参加する。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙において神奈川第三区は「吏党対民党」「藩閥対立憲」の構図となり、警察による選挙への干渉が行われた。これに対し、津久井郡有志総代の梶野敬三、県会議員の岡部芳太郎らとともに、副島内務大臣に抗議の陳情をする。 1893年(明治26年)、県会議員選挙に落選。4月、川和瑞雲寺で開催された都筑郡倶楽部設立懇親会の発起人として、小島貞雄、奥津徳兵衛、桜井光興、小泉太一郎らとともに名を連ねる。
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