孤立と自活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:58 UTC 版)
「ブーゲンビル島の戦い」の記事における「孤立と自活」の解説
以後、両軍は散発的に交戦していたが大規模な衝突は起こらなかった。アメリカ軍にしてみれば日本軍の補給を断って孤立させれば十分であったし、日本軍は食糧不足で戦闘どころではなかった。 日本軍はラバウルからブカ島まで潜水艦と駆逐艦で補給物資を輸送したが、量は微々たるもので絶望的に足りなかった。しかも輸送部隊はしばしば航空機などの攻撃を受け、1943年11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦では鼠輸送にやってきた日本艦隊が大打撃を被った。かくて1944年2月にはついに補給は途絶えてしまった。食料は日ごとに減少していった。各地の部隊は畑を耕して芋を収穫したがやはり量が十分ではなく、椰子の実やそのコプラなど食べられるものは何でも食べたが栄養失調の兵士が続出し、餓死者やマラリア患者などがバタバタと倒れていった。とくに蚊によって媒介されるマラリアは猛威を振るい、栄養失調のものから次々と感染して体力を奪われていった。医療品は望むべくも無かった。ガダルカナル島の「餓島(がとう)」に対して、ボーゲンビル島の「墓島(ぼとう)」と呼ばれる状況であった。
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