孤立以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:09 UTC 版)
1944年2月下旬の基地航空部隊の稼動機のトラック島への撤退と1944年2月29日のアメリカ軍のアドミラティ諸島への上陸によって、ラバウルは完全に孤立化した。同じころ、ニューギニア方面も航空基地としての機能を失いつつあり、ラバウルを中心とする組織的な航空作戦は終了した。戦闘機がなくなり、港内では、敵機の監視が厳しく、小船の航行も困難になった。ラバウルには第九五八海軍航空隊が、ブインには第九三八海軍航空隊が残留し、両隊合わせて水上機十数機が残されていた。 同年3月2日、連合艦隊はラバウルに残存する搭乗員を救出する「登作戦」を発令した。敵の戦闘機から隠れながら陸攻、飛行艇、水上機がトラックとの間を往来して、草鹿龍之介少将や富岡定俊少将など所要の人員を内地に送り返した。登作戦の結果、飛行艇で運ばれた500余名などラバウルの残存搭乗員はほぼ全員が収容された。伊号第四十一潜水艦も搭乗員50名・航空廠関係者を運んでいる。しかし、2航戦と751空の地上要員約400人は曳船「長浦」及び輸送船「興和丸」「黄海丸」から成る護送船団(第38号駆潜艇・第48号駆潜特務艇護衛)でラバウルを出た後、空襲及び米艦隊との交戦で全滅した。 ラバウルには第一〇八海軍航空隊廠長の山川義夫大佐以下約3500名の整備や技術の関係者が残された。彼らは、損傷した飛行機の修復を行い、まず約10機の零戦を、後に九七艦攻2機を作成した。1944年2月28日の稼動機数は零戦16機・夜戦1機に達した。3月2日、零戦7機は敵編隊に攻撃して5機撃墜を報告。3月15日、水上機隊がブーゲンビル島ブインへ再進出。現地残存201空・204空・582空残留員で再編成される。ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、隠密作戦続行。3月8日-25日、日本陸軍第17軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。ラバウル航空隊は第17軍司令官百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行うも失敗。4月15日の残存稼動機は零戦4機・夜戦1機となった。 同年5月5日に形式上ラバウルに残存していた25航戦は解隊され、麾下の151空・251空・253空は22航戦に転属となった。25航戦司令官の上野敬三少将もこれに先立つ3月8日にラバウルを離れていた。同年6月15日、各隊のラバウル残留員(主に地上要員)をもって第105航空基地隊が開隊されて、旧151空副長の堀知良少佐が105基地隊副長兼飛行長に就任、同隊が終戦までラバウル方面の航空作戦に従事することになった。 あ号作戦の直前、海軍が米海軍の主力の動向を探っていることを知った南東方面艦隊司令部は、5月31日に零戦2機でアドミラルティ泊地を偵察して連合艦隊司令部に報告。同方面への偵察はその後もたびたび行われた。10月、陸軍の独立飛行第83中隊により修理された一〇〇式司偵が完成し、トラック島でキニーネを受領するために往復する。 1944年10月15日、レイテ作戦に関連してアドミラルティ泊地を偵察。11月9日、零戦3機(60キロ爆弾2発装備、一番機は復座改造型)にてアドミラルティのハイン飛行場を爆撃。1944年末、ブイン水上基地の938空解散、残存人員はブーゲンビル島内で第85警備隊に編入された。1945年には、ニューブリテン島内前線拠点での地上戦続行中に小守備隊の玉砕が相次いだ。4月28日、ラバウルの復元九七式艦上攻撃機2機でアドミラルティ泊地を夜間雷撃。7月中旬、ブーゲンビル島南端旧ブイン基地員は復元零戦二二型1機を密林の中で完成。 1945年8月、海軍105基地隊の零戦と陸軍独飛83中の100式司偵でアドミラルティ泊地へ黎明偵察を実施。第九五八海軍航空隊の零式水上偵察機は補給と偵察を続行。8月15日、終戦。残存していた海軍機は攻撃機1機、戦闘機2機、水上機2機、このうち飛行可能状態の零戦二一型と陸軍の一〇〇式司偵はオーストラリア軍に、ブインの零戦二二型はニュージーランド空軍に接収された。
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