孤立する蜂起軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ワラキア蜂起」も参照 1820年12月、スーリ地区の山岳民とアリー・パシャらが結びついてイピロスでオスマン軍と激突した。このためオスマン帝国スルタン、マフムト2世はギリシャ本土の多くを支配していた実力者アリー・パシャを殲滅して弱体化しつつあるオスマン帝国の権威を取り戻そうと考え、兵を動かした。さらに1821年1月、フィリキ・エテリアを敵視していたワラキア公アレクサンドロフ・スーツォフ (en) が死去、ワラキア公国に政治的空白が生じた。そして後にギリシャ独立戦争に参加するテオドロス・コロコトロニス (en) がペロポネソス半島各地で蜂起を呼びかけていた。 この事態に対してフィリキ・エテリアは利害関係からアリー・パシャと同盟を結んでいたため、指導者アレクサンドロス・イプシランディスはこれを好機として、挙兵することを決定、イプシランディスは弟らを伴いキシニョフから西へ向かった。 1821年3月26日(旧暦2月22日)にイプシランディスに率いられた一隊がルーマニア国境のプルト川を越えヤッシーで蜂起、ここにギリシャ独立戦争が開始された。イプシランディスは渡河中、古代ギリシャの土地を解放することを誓ってエパミノンダス、タラシブロス (en) 、ミルティアデス、テミストクレス、レオニダスら古代ギリシャの英雄らの加護を祈り、革命を宣言して、各地のギリシャ人へ決起を呼びかけた。 4月になるとオデッサから部隊が到着、物資を補充した上でロシアのギリシャ人らも義勇兵や資金調達に携わっていた。また、一部のロシア軍将校らもフィリキ・エテリアに武器を与えるなどの協力を行った。イプシランディスの計画によれば、南ロシアのギリシャ人、モルドバのフィリキ・エテリア会員らが集まった上でワラキア、モルドバ両公国を占領、その上でドナウ河を渡ればセルビア、ブルガリアの人々が同調することになっていた。そしてイプシランディスの元にはロシアやモルドバ、ワラキア両公国のギリシャ人、ロシアのコサック兵、バルカン諸民族の人々が集まり、約7,000名が集結したが、これは当初の予想を大きく下回る数字であった。 そしてイプシランディスはルーマニア人トゥードア・ヴラディミレスク率いるルーマニア人名士(ボヤール)が1821年1月に起こした反乱を利用して戦線拡大を図り、ロシアの介入が近いと宣伝した。しかし、イプシランディスが頼りにしていたロシア皇帝は支援するどころかイプシランディスの軍籍を剥奪した上でこれを激しく非難、非介入の態度を示し、さらにオスマン帝国へ支援する姿勢さえ見せた。そしてさらに大部分のルーマニア人らは大部分のセルビア人、ブルガリア人らと同じくファナリオティスや金貸しとしてオスマン帝国に同調した抑圧者であるギリシャ人らに同調する気はなかった。そのため、イプシランディスはセルビアのオブレノヴィチへ密使を送りギリシャ、セルビアの永久攻守同盟を提案したが、この密使はオスマン帝国によって捕らえられ殺害された。さらに悪いことに4月に入るとヴラディミレスクはロシアが否定的な立場にあったことから元々、ヴラディミレスクが求めていた目的とフィリキ・エテリアの目指すところがちがったため、フィリキ・エテリアへの協力を拒否した。 一方でオスマン帝国はイプシランディス率いる義勇軍の活動についてすでに掴んでおり、ドナウ河南岸へ兵を送った。そのため、イプシランディスが当初考えていたドナウ河を強行突破してギリシャへ至る作戦は実行不可能となっていた。そして1821年5月、オスマン帝国軍はワラキア、モルドバへ一斉に進攻、5月27日、ブカレストは再びオスマン帝国勢力下となった。この状態にいたり、ヴラディミレスクはブカレストを退去していたが、ウラディミレスクとオスマン帝国が協力してフィリキ・エテリアの背後を襲うという噂が広まった。このため、イプシランディスはウラディミレスクを捕らえて処刑した。 このような状況に陥ったイプシランディスはブルガリア人が蜂起してオスマン帝国軍を牽制することを望んだが、小勢力であったブルガリア人らは動こうとしなかった。このため、イプシランディスの部隊は徐々に疲弊し、1821年6月、ドラガツァニの戦い (en) でオスマン帝国軍に敗退、イプシランディスはオーストリアへ逃亡、セルビア人、ブルガリア人、ギリシャ人の混成部隊はセク修道院で、イプシランディス軍やヴラディミレスク軍はプルート川沿いのスクレニで撃破された。
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