オーストラリア軍との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:58 UTC 版)
「ブーゲンビル島の戦い」の記事における「オーストラリア軍との戦闘」の解説
アメリカ軍はフィリピンへ戦力を集中するため、ソロモン諸島の作戦をオーストラリア軍の第1軍に委ねることとした。ブーゲンビル島でも1944年10月から12月にかけてタロキナ岬の航空基地に駐留していたアメリカ軍部隊が転進し、替わりにオーストラリア第2軍団を配備された。第2軍団は第3師団(第7、15、29歩兵旅団基幹)と第11旅団を主力とし、これにフィジー歩兵連隊が増強されていた。さらに第23旅団が周辺島嶼に展開した。 1944年11月末よりオーストラリア軍は島の占領と日本軍の排除を目指して攻撃を開始した。まず、第7歩兵旅団がタロキナからヌマヌマへ向けて島を横断して迫った。日本軍の歩兵第81連隊はタロキナ峠に幾重にも防御線を築いてその前進を阻止したが、1月上旬に峠を失陥した。ただし、オーストラリア軍の前進はそこで停止し、終戦までヌマヌマは日本軍が維持した。 一方ブインのある南部では、1944年11月下旬にオーストラリア軍第29歩兵旅団がジャバ川に到達した。1944年12月から海岸沿いを南下して、2月にモシゲッタに到達したが、日本軍の歩兵第13連隊の伏撃を受けて損害を出した。日本軍はブインまでのジャングルに蛸壺陣地を作って抗戦した。オーストラリア軍は損害の大きい第29歩兵旅団に代わり、第7歩兵旅団を先頭に立てた。1945年4月に日本軍は、オーストラリア軍第7歩兵旅団の前進を阻止すべく、歩兵第13および23連隊を投じて豪州台附近で攻勢に転じた。しかし攻勢は失敗に終り、1600名以上の多大な損害を出して後退した。その後、オーストラリア軍は第15歩兵旅団を主力に日本軍を圧迫していった。 北端のタリナ地区では、オーストラリア第11旅団が攻撃を担当した。日本軍は各地に設置していた監視所から次々と駆逐され、クヌア近郊で翌1945年1月10日に独立混成第38旅団の一部が本格的な戦闘に突入した。日本軍は陸軍部隊が遅延行動を取って時間を稼ぎ、その間に海軍設営隊が後方に陣地を建設し食料を増産、先住民を使って新しい畑を後方に作成してブカ島における戦闘に備える方針を採った。戦闘は4月25日まで続き、スン高地でオーストラリア軍第11旅団に大打撃を与えることに成功したが、日本陸軍部隊はタリナ地区での全滅を回避して東岸のヌマヌマに後退した。その結果ソラケン半島の港がオーストラリア軍に奪われ、そこから物資が揚陸されることとなった。以後も海軍第87警備隊(司令:加藤榮吉大佐)指揮下で戦闘が続けられ、ブカ島へ続くボニス半島の第211設営隊を中心に迎撃体制が取られた。日本軍はジャングルを使ってのゲリラ戦に臨み、少人数に分けた斬り込み部隊を徒歩やカヌーでオーストラリア軍の戦線に浸透させ、補給線や駐屯地を爆薬や地雷で攻撃して後方を撹乱した。また防御線ではジャングルに蛸壺を掘り、進撃予想路に地雷を敷設し、斥候部隊を伏撃して戦線を維持した。6月に入るとオーストラリア軍は戦車を投入して日本軍の防衛戦線を突破した。このため日本軍は防衛線を後方のジャングルに移転して対応し、航空用の60キロ爆弾を改造した対戦車地雷を急造して戦車1両を撃破、以降オーストラリア軍は戦車での戦線突破を行なわなくなった。また防衛線の包囲のため夜間にポートン桟橋に部隊を上陸させたが日本軍によって撃退された(ポートン桟橋の戦い)。 7月中旬頃になるとオーストラリア軍は日本軍の斬り込み戦術を熟知して、各地でこれを撃滅するようになり、合わせて猛烈な艦砲射撃と空爆を行なった。この結果食糧生産が滞るようになり、日本軍は疲弊して負傷者や戦死者が続出した。北部の第87警備隊はボニス半島での抗戦はあと1ヶ月が限界と見てブカ島への撤退を計画、7月23日に残存していた山砲や高射砲を全弾発射してオーストラリア軍の進撃を牽制し、その隙に部隊を後退させた。 1945年8月15日に日本が降伏すると、ラバウルより停戦命令が伝わり日本軍は戦闘を停止し、暗号表などの秘密書類を焼却した。9月3日に武器を引き渡して降伏した。
※この「オーストラリア軍との戦闘」の解説は、「ブーゲンビル島の戦い」の解説の一部です。
「オーストラリア軍との戦闘」を含む「ブーゲンビル島の戦い」の記事については、「ブーゲンビル島の戦い」の概要を参照ください。
- オーストラリア軍との戦闘のページへのリンク