天号作戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:23 UTC 版)
詳細は「芙蓉部隊」を参照 1944年11月25日、大西中将は美濃部を司令部に呼び出すと「君の所の夜襲隊はよくやっている。至急内地に帰って夜襲隊を錬成し、来年1月15日までに(フィリピンに)再進出せよ」と命じた。美濃部は部下を残していくことに抵抗を感じたが、大西の「中央には夜襲隊の育成について配慮するように手配する」と有無を言わさない命令であったため、戦闘901飛行隊は、戦力の再編成のため内地の752空に編入されることとなり、美濃部はフィリピンを離れて12月1日に第三航空艦隊司令部のある木更津に帰還した。このときに置き去りにされた本部及び地上勤務者は、1945年1月6日ルソン島に上陸してきたアメリカ軍を、153空司令の和田鉄二郎大佐の指揮のもと山中のゲリラ戦で迎え撃ったが、終戦までに和田以下大多数が戦死している。 戦闘901は戦力補充後、1945年1月にフィリピンに再進出することとなっていたが、752空は元々陸上攻撃機主体の航空隊であり、夜間戦闘機隊の扱いには慣れていなかったこともあり、901飛行隊は美濃部にほぼ一任された。752空は既に攻撃3隊と偵察1隊を擁しており、木更津基地には901飛行隊を受け入れる余裕がなかったため、美濃部はまず自分らの基地探しから始めなければならなかった。美濃部は自ら零戦に搭乗し基地探しをしたが、空中から見つけた海軍建設中の藤枝基地が適地と考えて、基地司令の市川重大佐に直談判し快諾を得た。美濃部は根拠地となった静岡県藤枝基地から見える富士山にちなんでこの部隊を「芙蓉部隊」と命名した。752空は第三航空艦隊の所属であったが、司令は「ダバオ誤報事件」の失態で第一航空艦隊司令を更迭されていた元上官の寺岡であった。美濃部は、物資不足の折、貴重な静岡蜜柑2箱を手土産に自ら零戦を操縦し、木更津基地の第3航空艦隊司令部の寺岡を訪ねて、芙蓉部隊という部隊名使用の許可と隊旗の揮毫を願い出たが、第一航空艦隊司令時代から美濃部を高く評価していた寺岡は「美濃部君が胡麻すりをする筈がない。副官、希望通りにするよう」と美濃部の異例の申し出を快く了承している。寺岡筆の隊旗は以後藤枝の指揮所に掲げられた。 美濃部の部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材について美濃部は、使い慣れた月光の配備を希望したが、すでに生産が中止されており、十分な数が揃わないことが判明、次に新鋭陸上攻撃機銀河を希望したが、20機ぐらいしか準備できなかったので、整備が困難で、各隊が使いたがらなかった水冷エンジンの彗星12型が大量に余剰している事を聞きつけ、彗星12型を主力機とすることにしたという。しかし実際は、芙蓉部隊に主に配備された水冷エンジン型の彗星は、夜間戦闘機用に海軍直轄の工作庁であった第11航空廠で製造されていた生産されていた機体で、彗星の大増産計画に伴って開発された空冷エンジン型彗星33型と比較して速度性能や上昇性能に勝っていたものを、夜間戦闘機隊として編成された芙蓉部隊に優先的に配備されたものであり、扱いに困った余剰の機体を押し付けられたいうのは美濃部の誤認であった。また、美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された。 1945年2月に入るとフィリピンより脱出してきた夜間戦闘機隊812飛行隊と804飛行隊も藤枝基地に配置されたが、901飛行隊と合わせて3個飛行隊が美濃部に委ねられた。美濃部の肩書は3個飛行隊の最先任飛行隊長に過ぎず、形式上の指揮官は関東空司令となっていたが、第3航空艦隊司令寺岡の方針もあり、美濃部が実質的な指揮官となっていた。この指示は口頭で伝えられており、大戦末期の海軍の部隊編成は混乱を極めていた。美濃部は藤枝基地で、昼夜逆転生活、夜間洋上航法訓練、座学といずれも夜襲に特化した猛訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700 km、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げた。
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