天台法華宗とは? わかりやすく解説

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天台法華宗

読み方:テンダイホッケシュウ(tendaihokkeshuu)

最澄開いた法華経よりどころとする仏教宗派

別名 天台宗(てんだいしゅう)


天台法華宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)

最澄」の記事における「天台法華宗」の解説

延暦24年805年6月5日対馬着いた最澄直ち上京する。『叡山大師伝』によると、最澄将来した天台法門勅命により7通の書写命じられ三論宗法相宗に学ばせた。この経典弘仁6年815年)に嵯峨天皇による題を書き付けて完成したとされる一方で最澄もたらした密教歓迎される繰り返し密教灌頂祈祷などが行われたことが伝記記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる延暦25年806年正月3日最澄年分度者に天台法華宗を加え改正上奏する一目の羅(あみ)はを得ることあたわず一両の宗なんぞ普く汲むに足らん — 最澄、『上奏文』 これ以前年分度者三論宗法相宗のみに認められていたが、最澄提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に新し仏教界の秩序作ろうとする意図うかがえるこの上奏は直ち僧綱意見求められ僧綱同意し1月26日太政官符により制定された。官符には年分度者学業任用など具体的な規定含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業天台)、各一名割り当てられた。しかしこの時点での公認はあくまで奈良仏教僧綱の下で認められたものであった。『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、弘仁9年818年)までに24名が得度受けた。しかし比叡山去った者が14名おり、そのうち法相宗奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生小儀とらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し危機感露わにしている。

※この「天台法華宗」の解説は、「最澄」の解説の一部です。
「天台法華宗」を含む「最澄」の記事については、「最澄」の概要を参照ください。

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