天台法華宗
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延暦24年(805年)6月5日に対馬に着いた最澄は直ちに上京する。『叡山大師伝』によると、最澄が将来した天台法門は勅命により7通の書写が命じられ、三論宗や法相宗に学ばせた。この経典は弘仁6年(815年)に嵯峨天皇による題を書き付けて完成したとされる。一方で最澄がもたらした密教も歓迎される。繰り返し密教の灌頂や祈祷などが行われたことが伝記に記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる。 延暦25年(806年)正月3日に最澄は年分度者に天台法華宗を加える改正を上奏する。 一目の羅(あみ)は鳥を得ることあたわず。一両の宗なんぞ普く汲むに足らん — 最澄、『上奏文』 これ以前の年分度者は三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった。上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に、新しい仏教界の秩序を作ろうとする意図がうかがえる。この上奏は直ちに僧綱に意見が求められ僧綱も同意し、1月26日の太政官符により制定された。官符には年分度者の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業(密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。しかしこの時点での公認はあくまで奈良仏教の僧綱の下で認められたものであった。『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、弘仁9年(818年)までに24名が得度を受けた。しかし比叡山を去った者が14名おり、そのうち法相宗が奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生は小儀にとらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し、危機感を露わにしている。
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