天台法華宗批判と徳一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)
「三一権実諍論」も参照 天台法華宗が広がりをみせると法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる。弘仁5年正月の御斎会にて嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁6年8月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題はいわゆる三一権実論争である。『叡山大師伝』によると南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある。 続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、恵日寺の法相宗の僧徳一が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた。なお最澄の著作の大半は徳一との論争に関連するものである。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、末法に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが火宅の喩(三車火宅)である。
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