邁作戦の立案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:28 UTC 版)
ラングーン陥落後、緬甸方面軍のうち第28軍と独混第105旅団のみがシッタン川西岸に孤立した状態となった。第28軍司令官の桜井省三中将は、孤立した場合にはペグー山系(en)に籠もって遊撃戦を続ける腹案をかねて持ち、木村兵太郎緬甸方面軍司令官の内諾も得ていた。しかし、4月下旬、桜井中将は、緬甸方面軍司令部の単身後退や防衛線の急激な崩壊といった状況を踏まえ、独断によりペグー山系に兵力を結集して機を見てシッタン川東岸に突破撤退する計画の検討を始め、「邁作戦」と命名した。4月26日、第28軍は、ラカイン州方面にある第54師団及び振武兵団(第55師団のイラワジデルタ残置部隊)に対して、ペグー山系への後退を命じた。 緬甸方面軍は、前述のとおり5月3日に第28軍にラングーン固守を命じ、5月9日には沼田多稼蔵南方軍総参謀長の指示を受けてラングーン奪回を命じたが、実情に合わず実行されなかった。5月26日、第28軍は緬甸方面軍司令部に対し、ペグー山系を拠点として遊撃戦を実施する計画と報告したが、内部では密かに6月下旬の撤退実行を決めていた。 6月4日、緬甸方面軍は、第28軍の後方部隊のみをシッタン川東岸に撤退させ、戦闘部隊は西岸に留まってラングーン及びペグーに対する攻勢を続け、イギリス軍の次期作戦を妨害するよう命令した。これに対して第28軍は全部隊の東岸撤退を意見具申し、6月25日に緬甸方面軍はついに第28軍主力のモールメン転進を命令した。緬甸方面軍は拙速主義での実行を望んだが、第28軍は主力である第54師団の集結を待つことにして作戦発起は7月下旬と予定した。また、緬甸方面軍の命令により、シッタン川河口の第33軍と上流シャン高原(英語版)の鳳集団(第56師団基幹)が攻勢作戦を実施してイギリス軍の兵力を引きつけ、第28軍の撤退を援護することになった。 6月27-28日、第28軍は各兵団の参謀、軍直部隊の指揮官を軍司令部に集合させた。兵棋演習による研究の結果、作戦開始は7月20日、渡河は7月24日夜といった要領が確定された。進出目標は第54師団がパプン(en, 8月15-20日頃)、その他軍直属部隊等がビリン(en, 8月14-20日頃)と予定された。
※この「邁作戦の立案」の解説は、「シッタン作戦」の解説の一部です。
「邁作戦の立案」を含む「シッタン作戦」の記事については、「シッタン作戦」の概要を参照ください。
- 邁作戦の立案のページへのリンク