被爆後の救援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 11:45 UTC 版)
「長崎市への原子爆弾投下」の記事における「被爆後の救援」の解説
(左)逃げる被爆者たち(山端庸介撮影)(右)復旧した長崎本線(1946年、米国戦略爆撃調査団撮影)。画面中央は未復旧の長崎電気軌道の線路である。 当時、長崎県庁の防空本部は、市内諏訪神社下の山腹に設けられた地下壕にあり、被爆時たまたまここで空襲対策会議中だったこともあって、県知事以下の防空本部機構は健在であった。しかしながら、被爆直後現地とは一時通信が途絶し、また火災が急速に拡大する中で救護活動の立ち上がりは困難を極めた。 現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った永井隆を初めとする医師や看護婦たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。所轄警察署(稲佐署・長崎署)や警察警備隊からも救護隊が出動したが、道路の途絶や激しい火災が活動の立ち上がりを阻んだ。こうした混乱の中、国鉄の救援列車(市内被爆のため長与駅で抑止されていた下り旅客列車を転用したもの )が、原爆投下から3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した。 夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送した。
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