被爆日誌の刊行と『廣島特報』
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「大佐古一郎」の記事における「被爆日誌の刊行と『廣島特報』」の解説
その後、戦後の社の再建に中堅社員として関わった大佐古は、在職中から広島原爆を記録する活動を進め、中国新聞社による『中国新聞原爆犠牲者追悼録 いしずえ』『中国新聞八十年史』、広島県による『広島県庁原爆被災誌』の編纂に執筆者として関与した。中国新聞社退職後の1975年2月、同紙夕刊の連載企画として、記者になってからの習慣で書き綴っていた1945年当時の日録をもとに「昭和二十年 - ヒロシマ記者の日記から」を執筆し、同年8月、これを『広島 昭和二十年』として中公新書から刊行した。しかし記者生活の心残りとして、被爆後の8月7日・8月8日両日の休刊(および中国新聞社の発行機能停止)により自分が見聞・取材した被爆直後の状況を記事にできなかったことを強いこだわりを持っており、1980年同じ被爆ジャーナリストとして同様の思いを抱いていた中村敏(被爆当時同盟通信広島支社編集部長。のち共同通信)・松重美人(被爆当時中国新聞カメラマン)と共同で、NHK総合制作のNHK特集「爆心地のジャーナリスト」(同年8月放送)の企画として、「当時の視点で書かれた原爆投下のニュースを昭和20年8月7日・8日付の新聞として発行し、被爆後2日間の報道の空白を埋める」試みを行い、表裏2面のタブロイド番ミニコミ紙「廣島特報」として刊行・配布した。大佐古は同紙で当時記事にできなかった先述の松村参謀長による「中国軍管区司令部発表」を掲載するとともに、当時および1980年の双方の視点でコラムを執筆した。
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