被爆直前の警報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 18:10 UTC 版)
「中国軍管区司令部跡」の記事における「被爆直前の警報」の解説
以下、中国軍管区司令部が1945年8月13日作成した資料『八.六廣島市被害状況』内の「敵機ノ來襲並二警報発令状況」と、広島市公式『広島原爆戦災誌』に記載されている、8月1日から6日8時15分までの警報発令状況を示す。 日時間防空警報備考警戒空襲1日 21:06 発令 - 22:15 解除 - 23:01 発令 - 23:22 発令 2日 00:12 解除 00:17 解除 - 3日 - - - なし 4日 23:50 発令 - 5日 00:35 解除 - 21:20 発令 - 21:27 発令 山口県宇部市に飛来したB29の一団に反応したものとされる 23:55 解除 6日 00:25 発令 この夜は兵庫県西宮市が空襲されている 02:10 解除 02:15 解除 - 07:09 発令 - 天候偵察機B29ストレートフラッシュに反応したもの 07:31 解除 - 08:06 (松永防空監視哨は大型2機発見と報告) 08:09 (同哨は3機と修正報告) 08:15 B29エノラ・ゲイにより広島市への原爆投下 [全画面表示] エノラ・ゲイを初視認した松永防空監視哨は現在の福山市役所松永支所の南側にあった。なお松永の通報は『広島原爆戦災誌』では呉鎮守府の記録として記載しているが、『八.六廣島市被害状況』に同じ内容の記載があるため防空作戦室はその通報を受け取っていたと考えられている。 8月以前まで頻繁に警報が発令されたが、8月に入ってから急に少なくなり2日から4日までほぼなかった。この2、3日間で市民は不思議に思っていた、あるいは広島は空襲されないという希望的な推察が流布していた。そして5日から急に警報発令が増えることになる。 8月6日、7時31分警戒警報解除以降何もなかったため、中国軍管区司令部防空作戦室の軍人たちは宿舎に戻っていたという。一方で学徒通信隊(比治山高女生徒)は8時が夜勤と日勤の交代時間であったが、8月6日朝は大本営前で行われていた比治山高女の朝礼が長引いたため、8時を過ぎても夜勤の第2班が勤務していた。比治山高女教師と第1班第3班の約60人ほどは、8時15分被爆時には大本営前で竹槍の戦闘訓練中であった。 一般に、広島原爆投下直前に防空警報は発令されていない、とされている。ただし警報を発信した、あるいは警報を聞いたという証言も残っている。 『八.六廣島市被害状況』には「本状況ニ依リ警戒警報ヲ發令セントスルヤ〇八一五爆撃ヲ受ク」とあり、明確に警報発令したとは書かれていない。 中国軍管区司令部で勤務していた人物(名前省略)は防空作戦室勤務の兵長から聞いた話を手記にまとめている。それによると、松永防空監視哨からの通報を受け兵長が食事中の参謀や将校がいる将校集会所へ報告に行き、それを受けて中尉と少尉は警戒警報では間に合わないので空襲警報を発令しようと防空作戦室へ急いで帰り、広島中央放送局に電話し「8時12分、中国軍管区情報、敵大型3機、西条上空を西進中、空襲警報発令」と叫んだ、という。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1945年8月11日 衝撃波が入ってきた小窓 指揮連絡室で勤務していた比治山高女生徒岡ヨシエは証言を残している。まず、8時09分の報告時点で防空作戦室が手薄だったため8時13分になってやっと「〇八一三 ヒロシマ・ヤマグチ ケハ」のメモがでたという。そしてメモの内容を岡が担当する電話交換機を使って伝達しようとした瞬間、窓から入ってきた爆風で飛ばされ気を失った、という。 防空作戦室で勤務していた比治山高女OGの軍属の人物(名前省略)は、警報が発令され警報板のスイッチを押しはじめ半分くらい伝達し終わった時に爆風で飛ばされた、と証言している。 『広島原爆戦災誌』に流川(現幟町)の広島中央放送局でのことが記載されている。それによると、突如警報発令合図のベルが鳴り、アナウンサー古田正信は警報事務室に入って「午前8時13分、中国軍管区情報、敵大型機3機、西條上空を西進しつつあり、厳重なる警戒を要す。」の原稿を受け取り、スタジオ入りし西條上空を・・・まで読んだ瞬間に爆風に遭った、という。 『広島原爆戦災誌』に、広島女子商業学校(現翔洋高)に駐屯した陸軍船舶砲兵団衛生教育隊、安佐郡安佐町の人物、安芸郡矢野町の人物が警報のサイレンを聞いたことが記載されている。 こうしたことから、警報発令を伝達する最中に被爆したため、一部で警報発令が伝わり、地区によってはそれでサイレンを吹鳴した可能性があると考えられている。 なお、当時ラジオ放送は1日6回の放送休止時間があり、被爆前後にあたる午前8時から午前10時は休止時間だった。その時間帯でも防空警報は緊急放送で流されたが、受け手である市民はラジオの電源を切っていたため、警報サイレンが鳴らなければラジオをつけて情報を得ることができなかった。また敵機飛来に慣れてしまい警戒警報発令中でも町を歩いていた者がいた、とする証言も残っている。
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