被爆者の救援と平和運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:40 UTC 版)
これより前、谷本は1948年3月UP通信ルサフォード・ポーツの取材を受けた。その記事の中で「ノー・モア・ヒロシマ (No more Hirosima)」が初めて唱えられ、駐留米軍紙を経てアルフレッド・パーカーが平和運動のスローガンに用いて世界に広がった。 谷本は、1948年10月にエモリー大学とアメリカメソジスト教会外国伝道局の招請により渡米した。15カ月間に渡り31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えるとともに、流川教会復興に奔走。のちにアメリカ上院で開会祈祷を行うなど、アメリカでは一躍時の人となった。しかし国内では、占領軍によるメディア統制(プレスコード)のために、原爆被害の実情も、谷本の活動もよく知られていなかった。また国内のキリスト教関係者の中には彼の事を原爆牧師とあだなして非難する人もあったという。 その後も谷本は度々アメリカに講演旅行にでかけ、被爆者を助けるための寄付を募った。知己を得た作家パール・バックの支援を受けつつ、1950年8月、ヒロシマ・ピース・センターを設立し、ノーマン・カズンズとともに被爆した少女や孤児の救済活動として、原爆孤児の精神養子運動に取り組んだ。精神養子とは、アメリカ人が「精神親」となって養育費を送金し、原爆孤児を援助する活動である。谷本は、野宿する孤児を探してしばしば広島駅などを廻っていたという。1953年頃からは、後遺症となったケロイドに苦しむ「原爆乙女」をアメリカで治療する活動にも広がった。その頃、教会で谷本の活動を手伝った女子大生に中村節子(後にノーベル平和賞を受けたサーロー節子)がいた。
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