被爆証言活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 23:55 UTC 版)
「佐伯敏子 (反核運動家)」の記事における「被爆証言活動」の解説
やがて戦後の復興と共に、次第に広島の被爆の形跡の風化が始まった。原爆供養塔でも1967年(昭和42年)頃に「原爆納骨安置所」と書かれた木碑が撤去されたり、供養塔入口にあった「安置所」の文字がペンキで塗りつぶされた。佐伯は広島の被爆の形跡が忘れ去られることを憂い、被爆の形跡を後世に遺すための行動として、前述の自著の遺書をまとめてノートに転写し、平和運動中とされる市内の40以上の学校、各団体へ郵送し始めた。その数は100冊近くに昇った。 当初の各団体の反応は薄く、広島市内の小学校ですらまったく返信がなかったが、それでも佐伯はノートを送り続けた。やがてこれが、原爆文献を通じて平和運動に取り組む市民団体「原爆文献を読む会」の目に触れ、この佐伯のノートを再編集したものが自費出版誌『十三人の死をみつめて』(.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}NCID BB06084172)として1972年(昭和47年)に発行された。なお同会の主要メンバーの1人である鵜沼禮子が最初に東京から広島の佐伯のもとへ会いに行った際、台風による交通機関のトラブルで到着が深夜になったが、鵜沼が佐伯宅に着くと、真っ暗な中、傘を差した佐伯が家の前で待ち続けており、その後も寝る間を惜しんで鵜沼に被爆体験を語り続けたという。 『十三人の死をみつめて』が多くの人々の目に触れたことで、佐伯のもとへ話を聞きに訪れる人々が増加した。同和教育の副読本で佐伯の被爆体験を取り上げる小学校もあった。「原爆文献を読む会」の拠点が東京にあったことで、東京から広島行きの修学旅行も増えることとなった。 これ以降の佐伯の出番は、語り部として飛躍的に増えた。それまでは供養塔を訪れた人々に尋ねられたときのみ被爆体験を話していたが、修学旅行生や観光客たちが佐伯の話を聞きに訪れるようになり、佐伯は彼らを相手に戦中の被爆体験、戦争の悲惨さ、平和の大切さを、学生たちや人々に語り続けた。「若い人たちに戦争をかっこいいものと勘違いされたら困る」との思いも、その動機の一つであった。「広島の原点は原爆供養塔にある」といって、場所は主に供養塔のそばであり、相手の人数が多くてもマイクを用いず肉声で話していた。証言相手が少ない頃には、広島市内の慰霊碑について手書きで解説した書き物を全員に手渡すなど、心のこもった対応を心がけた。教員や生徒らと親交が深まり、佐伯に会うため供養塔へ来る学校もあった。 学校の講演に呼ばれたときにも「365日、喪に服している」といって、黒の喪服姿で講演を行なった。「広島の中心は原爆慰霊碑ではなく、本来は遺骨がある原爆供養塔」「誇張せず、事実のみを語り伝えることがヒロシマの風化を防ぐ」「広島の復興が続いても、死没者たちは歳をとらず当時のままだから、ヒロシマに歳はない」「美しく生まれ変わっても、ヒロシマは死者の町」が常に佐伯の信条であった。被爆地である広島に「風化」という言葉は使わせない、被爆者の遺骨を納める大事な場所といって原爆供養塔ではなく「原爆納骨安置所」と呼ぶ、死者の眠る土地だからといって「広島平和記念公園」の名を避けて「地獄公園」と呼ぶ、などの拘りもあった。 1980年(昭和55年)に大阪府の松原市立布忍小学校が修学旅行で佐伯のもとを訪れた際、同校の音楽教諭・中島智子によれば、佐伯は「体験を誇張して語る被爆者もいる」「作り話にしてはいけない」「真実を話さなければならない」といって、自室の壁面はすべて本棚で、床から天井に至るまで原爆関係の資料がびっしりと詰まっていたという。 この頃の佐伯は毎日のように、供養塔で清掃活動を行なっているか、修学旅行生たちに語っているか、次の旅行生たちを待ってベンチに掛けているかのどれかであったため、1970年代末には、誰かが佐伯の居所を尋ねれば「原爆供養塔に行けば必ず逢える」と答が返ることが定番となった。 自分は1人の被爆者に過ぎないといい、被爆者団体や政治組織などにも関与しなかった。いわば「一匹狼」であり、地元での被爆者同士の対立や思想的な対立とも無縁であった。かつて「一億玉砕」をスローガンに日本中が一丸となった挙句、自分の大切な家族や親族が大勢失われたにもかかわらず、国家やマスコミなど誰からも謝罪されなかったことから、二度と組織に与せず、自分で見て考えて、自分の言葉で行動するとの覚悟からだった。このため、周囲から「つき合いが悪い」と言われることもあった。後述するジャーナリストの堀川惠子によると、佐伯はどの被爆団体にも属さず、自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の言葉で語る覚悟があったのだという。 証言活動のほか、1977年(昭和52年)頃から元安川で被爆瓦(被爆時の熱線で焼けただれた瓦)を拾う活動が各学校で広まった際には、教師や児童、生徒たちと一緒に取り組んだ。1981年(昭和56年)にはこの元安川で学生服のボタンを見つけ、被爆の熱線に焼かれて川へ逃げ込んだであろう学生たちを想ってボタンを集め、川に供養の祠を築きもした。 1988年(昭和63年)、常に佐伯の体を気遣っていた夫が死去した。1990年代に入ると、体調の悪化から入退院を繰り返す身となった。「今の内にできる限りのことをしておきたい」と、被爆証言活動の回数を増やし、1日に7回の語りをこなす日もあった。親交のあった平和運動家の江口保が無理をしないよう諭しても「少し証言を少なくすると、それだけ長生きが保証できますか」と言って閉口させたという。疲れて声が掠れても、「命あるかぎり、ものいわぬ死者に代って被爆の実相を語り続けたい」と、常備薬である漢方の水薬で喉を潤しながら話し続けた。 約20年間にわたる被爆証言活動の末、子供時代に佐伯の話を聞いた者が、後に教員や報道関係者となって原爆問題に取り組んでいる、との報告も寄せられた。佐伯の証言に影響を受けて広島での平和運動を始める者も現れる、高知市立第四小学校での人権・平和集会で、生徒たちが佐伯の話をもとにした劇「ヒロシマに歳はないんよ」を演じる、前述の布忍小学校の教諭が佐伯の証言をもとにした歌を作詞作曲する、といった反響もあった。1994年(平成6年)にこの布忍小学校の生徒たちと佐伯との交流会が開催された際には、生徒たちが佐伯の被爆証言に涙し、その感想や自分たちの体験を次々に発言し、予定時間を1時間過ぎても発言を続けていた。大阪の小・中学校では1円募金が行なわれ、1996年(平成8年)には14万円、1998年(平成10年)には18万円の寄付があり、死没者の供養と平和運動のために活用された。 佐伯の家族の証言によれば、佐伯のもとに郵送された感想文や文集は、自室の書棚にはとても入りきらず、2015年(平成27年)時点での量はトラック約6台分にもなったという。佐伯はそれを読むのが大きな喜びだった。
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