被爆体験
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「広島 昭和二十年」も参照 戦争末期の1945年6月、大佐古は広島市中心部の大手町(現在の広島市中区)から郊外の安芸郡府中町鹿籠(こごもり)に転居してここから市内・上流川町(現・中区)の中国新聞本社(中国ビル)に通勤していたが、同年8月6日朝には爆心地から5㎞の自宅に帰っておりここで原爆に被災した。当日、中国新聞社は爆心直下の水主町(現・中区)での建物疎開に46名の社員からなる国民義勇隊が出動しており、彼自身もこれに参加するはずだったが、直前に召集令状を受けていたことへの配慮から同僚記者が代わりに出動し、中国新聞本社(爆心地から900m)での当直が明けた大佐古は早々に帰宅していたため命拾いをしたという経緯があった。被爆直後、猿猴川を渡り段原・比治山(ともに現・南区)に向かった大佐古は、市内中心部に大きな被害が出ていることを知り、さらに広島駅前付近から中国新聞本社に向かうことを試みたが、激しい火災により断念し、実家のあった牛田(現・東区)方面に迂回して神田橋を渡って白島に入った。そこから広島城内の中国軍管区司令部に赴き、午後3時ころその廃墟で旧知の松村秀逸参謀長に会い「新型爆弾により市内に相当の被害」とする「軍管区司令部発表」を受けた。そして夕刻近く、内部が全焼し未だ煙がくすぶっていた中国ビルにたどり着いたが、多くの同僚記者やスタッフが死傷し印刷機などの設備も使用不能になったことを知り、その日自分が目の当たりにした地獄絵図も司令部発表も記事にすることができなくなったことに思い至った。
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被爆体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 21:21 UTC 版)
長崎市内の中学校へ通うため、長崎市竹之久保町に下宿していた。当時13歳、旧制中学校1年の時だった。 1945年8月9日11時2分、長崎市田手原町の甑岩(こしきいわ)で被爆する。学徒動員による戦車断崖(戦車を崖から落とし動けなくする人口の崖)の構築作業中であった。これは、本土決戦に備え、橘湾方面から上陸し進撃してくる敵戦車を捕捉するためのものであった。 その日の午後、下宿先の竹の久保町をめざし帰宅する。途中さまざまな被爆体験をする。下宿先も倒壊焼失したため、渕神社近くの山中で野宿する。 その後、友の死を体験し、食べ物に苦労しながら数日を過ごし、家族の疎開先の島原市有明町湯江まで列車で帰る。 仏壇に自分の入学写真が遺影として飾ってあったのに驚く(長く帰ってこないので死んだと思われていた。)。 戦後、原爆症の症状が体にあらわれたが、現在は、画家となっている。1992年には、そのときの被爆体験を絵本にして出版した。
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