被爆以前の浦上校地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 00:57 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「被爆以前の浦上校地」の解説
第五高等中学校医学部設立当時の校地は、長崎養生所以来の小島郷字稲荷岳の校地(小島校地,現・長崎市立佐古小学校校地)を継承していたが、1891年9月11日、県下西彼杵郡浦上山里村里郷(1920年10月長崎市に編入合併 / 現・坂本町)に新校舎が建設されて移転し、在来の小島校地は分教場とされた。以後浦上校地は医専・医大に継承され、医大の原爆被災まで存続した。また正門(現在の長崎大学医学部裏門)を入って右手奥にある丘は、「虞美人草の咲く路の丘」略して「グビロが丘」と呼ばれ、丘の上の広場には医学校当時の木造2階建ての洋館が小島から移築された(1930年7月の暴風雨で倒壊した)こともあり、この丘は新校地のシンボルとなった。 明治期の長崎医学専門学校(浦上校地) 大正期の長崎医学専門学校附属医院
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