被爆及び救護活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:31 UTC 版)
「永井隆 (医学博士)」の記事における「被爆及び救護活動」の解説
1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。 (永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった。 3日目の8月11日 、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した。8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護にあたった。 9月10日頃 、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇跡的に止まった。本人によると、本河内のルルドの水を飲み、「神父(かつて診察したことがあった)の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。 10月15日 、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出。その後25年間所在が不明だったが、長崎放送の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された。 1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。
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