広島での被爆体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:25 UTC 版)
1945年8月6日、少年兵に志願し広島市内で教育を受けていたこいしは広島城付近(現在の同市中区白島)の陸軍兵舎2階で褌一丁で朝食を摂っていた際、広島市への原子爆弾投下に遭遇し被爆する。閃光が見えた時とっさに階下まで避難したが、建物が一部崩壊したため梁の下敷きとなり腹部を強打し気を失った(爆心地から近い地点、しかも殆ど裸同然の姿であったにも関わらず奇跡的に大きな外傷はなかった)。7時間後に目を覚まし手を動かしたことで救出されたが、その後似島(現・南区)の陸軍病院まで運ばれる最中、市街地での惨状を目の当たりにした。こいしはこの病院で終戦を迎え、その2週間後両親や兄・いとし(徴用解除により帰郷していた)が住む大阪のアパートに帰り着いたが、原爆投下により『広島全滅』との報道を聞いた家族は、こいしが既に死亡していると考え、位牌が作られていたという。 戦後長くこいしは自分の被爆体験やその直後の惨状についての体験談を、「生き残った者の後ろめたさ」「笑いを提供する側が悲劇を語ってはいけない」という理由もあり、自ら積極的に被爆体験を語ることはほとんどなかった(被爆者健康手帳も未取得である)。しかし、いとし死去によるコンビ解消後の2005年、被爆60年を機にNHK総合の番組に出演し娘の喜味家たまごとともに広島平和記念公園を訪れ、自らの体験を語っている。
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