広島での被爆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 00:53 UTC 版)
「江戸家猫八 (3代目)」の記事における「広島での被爆」の解説
広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、23歳の猫八は同市内宇品(現・広島市南区)に駐屯する陸軍船舶砲兵第1連隊(暁2953部隊)の「岡田六郎兵長」として軍務に従事していた。当日朝は地方巡業中の移動劇団「桜隊」の一員として広島に滞在していた旧知の女優・園井恵子と会う予定であったが、前日の軍旗祭(連隊記念祭)で声帯模写を披露し獲得した優勝賞品の酒を飲み過ぎ、二日酔いで寝坊したため朝の点呼に遅刻し園井と会うことができなくなった。そして部下の初年兵に起こされた直後に原爆投下に遭遇した(このとき園井は爆心地に近い宿舎で被爆し、神戸まで避難したものの8月21日に原爆症で死去)。 しかし連隊が置かれていた宇品は爆心地から3km以上隔たっていたため直接の被害は少なく、猫八は比治山町の船舶砲兵団司令部との連絡を取るため御幸橋方面の被害状況の偵察を上官から命じられ、初めて惨状を目の当たりにすることになった。その後彼は暁部隊の一員として市内の救援・医療活動に動員されたため、市内に高度に残留していた放射線に被曝、復員後は生涯にわたって二次被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。 被爆時・事後の救援・医療活動動員での体験は、猫八にとってあまりにも悲惨で生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったため、長い間この体験は語られなかったが、後年「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」を著して自らの被爆当時を記している(同様に暁部隊の一員として被爆した人物には、司令部付きの兵卒であった思想史家・丸山真男がいる)。
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