原子爆弾への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:23 UTC 版)
「ヘンリー・スティムソン」の記事における「原子爆弾への関与」の解説
5月29日、大統領であるトルーマンの求めに従って会議を開催し、ジョセフ・グルー国務長官代理の提案通りに、日本に対して天皇制存置条項を含む最後通告を出すかどうか、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代理、およびそれぞれの副官が話し合ったとき、スティムソンは今はその時ではないとして見送ることを主張した。 7月2日にスティムソンは日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。 スティムソンは原子爆弾に関して、マンハッタン計画の長であるレズリー・グローヴズ准将を監督し、原爆投下決定を検討したとされる「暫定委員会」の委員長を務めていた。ルーズヴェルトと後任のトルーマンは共に、原子爆弾のあらゆる局面で彼の助言に従った。そして必要とされるときスティムソンは軍の意見を却下した。 例えばスティムソンの頭越しでグローヴズから受け取った原爆投下の目標リストのうち、文化の中心都市であるとして、ハネムーンを含めて2度訪れたことのある京都への投下に強硬に反対しリストから外させた。スティムソンの7月24日付の日記には「私は京都を目標から外すべきだと大統領に伝えた。もし一般市民が暮らす京都に原爆を落とすという理不尽な行為をすれば、戦後和解の芽をつみ、日本が反米国家になってしまうと。すると大統領は『全く同感だ。』と答えた。」と記されていた。1945年8月6日に最初の原子爆弾の攻撃が広島を破壊した。8月8日にトルーマンがワシントンに戻った直後、スティムソンはトルーマンの元を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せ、トルーマンは「こんな破壊行為をしてしまった責任は大統領の私にある。」と述べている。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走し、8月9日に原爆は長崎にも投下された。戦後には原爆投下に対する批判を抑えるための「原爆神話」を生み出した。 スティムソンは原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明(1947年2月)。 これが原爆使用正当化の定説となった。ただしピーター・カズニック歴史学教授はこの神話に反論している。 1932年6月から1941年12月の日米開戦の時まで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、スティムソン論文が発表された後の2月12日に9ページにも及ぶ次のような要旨の長文の手紙をスティムソンに送り付けた。 原爆投下は必要無かった。グルーの勧告どうりにトルーマンが日本に対する最後通告(のちにポツダム宣言となる)を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたからだ。 この最後通告はグルーが部下に作らせたもので、グルーがもっとも重視した日本国民が選択すれば天皇制を存置することができるという項目を含んでいた。 従ってスティムソン論文の要旨「2度に渡る原爆使用だけが戦争を終わらせ、日米の将兵の命を救う道だった」は、「天皇制存置条項を含んだ最後通告をトルーマンが発していれば、日本は6月か7月には降伏していた」というグルーらの見解に反しているだけでなく、早期終戦をもたらすために彼とその部下がトルーマン政権内で懸命にしていた努力を全く無視するものだ。 しかも、スティムソンはまるで天皇制存置を唱えたのは自分であったかのような書き方をしているが、実際これを彼よりはるか先に、そしてもっと強く主張し続けたのはグルーだった。 1947年3月25日にダグラス・マッカーサーは、「スティムソンが原爆を使用したのは莫大な予算をつぎ込みながら原爆を使わずに戦争が終われば、開発責任者として自分の責任が問われる事になると恐れた為だ。」と発言した。
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