原子爆弾投下阻止の試みと挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 12:25 UTC 版)
「日本への原子爆弾投下」の記事における「原子爆弾投下阻止の試みと挫折」の解説
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。 1944年5月16日に、ボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のヴァネヴァー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。 また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。 なお、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日大使を務めたことのあるジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていた。 これらのアメリカ側の動きを日本側は、アメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、中国で国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたのであった。
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