原子物理学の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:38 UTC 版)
「アーネスト・ラザフォード」の記事における「原子物理学の父」の解説
この称号は科学史の中だけではなく、その人柄によってこそ裏書きされる。ラザフォードは慈愛心に満ち、若い研究所員たちを、ボーイズ(息子たち)と呼んだ。ケンブリッジのキャヴェンディッシュ研究所は、設備や計測機を開発しながら大きくなり、成果を上げて行った。 その開発や研究に取り組むのは、若い所員たちであった。質量選別器でアイソトープの分離に成功したフランシス・アストン、霧箱で原子軌道を撮影した清水武雄、それを元に原子軌道を開明したパトリック・ブラケットなど、世界中から逸材が集結した。 ラザフォードは長身で、風格があり、夏のビーチでもジャケットを脱がない英国紳士であった。彼は自分で財界から寄付を募って、研究所の予算を四倍にまで伸ばした。 父と称されながら、一番弟子とは生別・死別を余儀なくされている。逆に、それ故に父性が際立つとも言える。周期表を発明し、未発見の原子を予測したヘンリー・モーズリーは、志願して従軍し、ガリポリ戦線で命を落とした。これでイギリスは、原子物理の一線から退いたと言われる。 キャヴェンディッシュ研究所でのお気に入りは、ロシアから来た物理学者ピョートル・カピッツァであった。彼は始め、ソビエトとイギリスとを自由に行き来していた。しかし、1934年、物理学者の重要性に気付いたソビエト政府は、彼を渡航禁止にした。ラザフォードはそれに抗議の手紙を出した。それに対する返事には、「イギリスがカピッツァを欲しがっているのは理解できる。我々もそれと同じくらいラザフォードを求めている」というものだった。英首相ボールドウィンの助力を頼んだが、無駄だった。カピッツァの親類の女性が、駐英ソビエト大使マイスキーに向かって、「うちのピョートルは頑固者だ」と脅すと、大使は、「我らのヨシフ(スターリン)はもっと頑固者だ」と返した。万事休す。ここでラザフォードはどんな手に打って出たか。彼はカピッツァの為に、三つの財団の予算を使って建設し、ケンブリッジの三つの発電所の出す電力を一度に使う高圧の実験装置を、なんと、ソビエトに送り付けたのだ。これにはソビエトも、三万ポンドの代償を支払ったのみならず、カピッツァを慰める為、モスクワに英国様式の新しい研究所を建てた。カピッツァも観念して、「我々は運命という大河の中を流れる一微粒子に過ぎない」とラザフォードに宛てた。
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