原子爆弾搭載爆撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/13 02:08 UTC 版)
「アメリカ爆撃機計画」の記事における「原子爆弾搭載爆撃機」の解説
歴史家デイヴィッド・アーヴィングは、ニューヨークを爆撃する方法が1942年5月~6月の間にドイツ空軍会議でいくどか議論されたと述べている。多くの注目を集め、指示された案の一つが前述の肩車計画であった。しかし、空軍元帥のエアハルト・ミルヒはこの計画では少量の爆弾しか運用できず、計画規模に対して相手に与える打撃が小さすぎるとして反対していた。 1942年6月4日に、エアハルト・ミルヒとアルベルト・シュペーアはヴェルナー・ハイゼンベルクによるハルナック・ハウゼでの原子分裂の講義に出席した際、シュペーアはこの研究により原子爆弾が設計できるようになるのかハイゼンベルクにたずねている。このときハイゼンベルクは2年間はかかるが可能であると答えている。都市を破壊するにはどの程度の大きさが必要なのかという質問に対しては、フットボールのサイズくらいであると返答している。 ハイゼンベルクはこの研究を継続するために必要な資金・希少材料の提供、そして軍に拘束されている研究者の解放を求めた。原子爆弾を運搬する手段として、肩車計画がドイツ空軍とドイツ海軍の合同会議で再び日の目を見た。しかし計画は数週後の1942年8月21日に放棄された。ドイツ海軍が航空機乗組員を回収する為のUボートをアメリカ沖に配置することができなかったためである。ドイツ海軍がドイツ空軍に対して協力しなかったためにこの計画は頓挫した。
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