原子爆弾投下とフリーメイソンリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:19 UTC 版)
「日本のフリーメイソンリー」の記事における「原子爆弾投下とフリーメイソンリー」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1945年8月6日・9日の広島・長崎に投下された原子爆弾、「リトルボーイ」(上)と「ファットマン」(下)。 「日本への原子爆弾投下」も参照 第二次世界大戦中の米国においても米軍最高司令官たる米大統領以下、フリーメイソンの政治家が多かった。連合国側の原子爆弾開発「マンハッタン計画」を推進したフランクリン・ルーズベルト第32代大統領と、日本への原爆投下時の第33代大統領ハリー・S・トルーマンはフリーメイソンであった。日本への原爆投下を計画・実施したカーチス・ルメイ少将(東京大空襲指揮官)はフリーメイソンであり、1944年7月7日にオハイオ「レイクウッド・ロッジNo.601」(Lakewood Lodge)にてフリーメイソンの階級を第3階級マスターメイソンに昇級した。フィリピンの戦いに従軍の指揮官であったダグラス・マッカーサー元帥(戦後日本の連合国軍最高司令官)もまたフリーメイソンであったが、彼は原爆投下の必要性に同意しなかった。もっとも、アメリカ対日協議会に逆コースを推進するよう圧力をかけられてからは態度に自律性が失われ、朝鮮戦争では原爆投下を立案した。政治的イデオロギーでは、F・ルーズベルトとトルーマンは民主党出身の大統領、マッカーサーは共和党等が擁立した大統領候補者であった。大多数の米国民は原爆投下の倫理上の葛藤を抱えながら日本国民への心配を目に見える態度で表すことはほとんどなく、その問題からは目を背け、原子力エネルギーの将来というものに注目していたようであったが、原爆投下後に米国で称賛の声もあまり聞かれず、米国民の大多数はまた原子力エネルギーがもたらす放射線被曝の問題を分かっていなかった。スコティッシュ・ライト第32階級メイソンの片桐三郎は、マッカーサーとトルーマン間における原爆の話を交えながらメイソンと政治は関係ないと言う。 1945年日本への投下実行までの歳月においてフリーメイソンリーと原子爆弾の間に特に相関があるわけではなかった。フリーメイソンリーのあらゆる時代において多くの平和主義者もまたフリーメイソンであった。例えば反軍的な『出兵の祈り(戦争の祈り)』を著したマーク・トウェイン。啓蒙時代のヨーロッパ思想家(啓蒙時代の知識人でフリーメイソンでない者を探すほうが難しい)の中で、フリーメイソンの平和主義者は多かった。 平和主義からなる欧州統合構想「パン・ヨーロッパ」を1920年代から提唱していたフリーメイソンのリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、平和のために利用される前人未踏のエネルギー源が人類の生活を豊かにすることを思い描き(クーデンホーフ=カレルギーの技術論)、ナチス・ドイツ指導者アドルフ・ヒトラーに対して言論で戦った(クーデンホーフ=カレルギーとヒトラー)。トルーマン大統領は戦中に米国に亡命したクーデンホーフ=カレルギー伯爵による欧州統合構想を支持した。トルーマン大統領はとりわけ亡命中のクーデンホーフ=カレルギー伯爵による1945年12月発表の欧州統合構想の記事に感銘を受け、この記事は米国の「公式政策」として採用された。また第二次大戦下の平和主義者は、「国際連合の父」コーデル・ハルである。ハルは、第二次大戦中に国際連合(国連; UN)設立のために重要な役割を果たし、その功績により1945年にノーベル平和賞を受賞した。そのハルがフリーメイソンであったという文献がある。 当時の反フリーメイソンリーと原子爆弾開発 ナチ党政権期のドイツと同様に激しく反フリーメイソンリーで、フリーメイソンを絶やそうとしたソ連(ヤルタ会談で対日参戦決定)は積極的に原子爆弾を開発していた。メイソンリーを制限していた戦中の日本もまた原爆開発に着手していた(日本の原子爆弾開発)。
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